ルイジ・ストゥルツォの政治思想と非宗派性の問題
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概要
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イタリア人民党は、一九一九年から一九二六年までの、まことに短い歴史しかもっていない。第一次大戦直後の選挙において、下院五〇八議席中一〇〇議席を占め、社会党についで第二党となった人民党は、イタリア現代史上いかなる役割を担っていたのか。その問題は、イタリア・ファシズムの特質を決定する上でも無視できない問題点を構成するばかりか、F・シャボーが言うようにイタリア近代史の重要な結節点ともなっているのである。また、このイタリア近代史の特殊性を担っているカトリック教徒の公式の国政参加には、一般的な政治過程の問題のみならず、カトリック教徒にとっての独自な問題が付随していたのである。それには、一般に《non expedit》と呼ばれるイタリア・カトリック教徒への国政選挙棄権指令の問題である。《non expedit》とは、一八六八年、聖庁内赦院Sacra Penitenzieriaにイタリア王国下院議員選挙へのカトリック信者の参加の是否を問うたところ、その答えがnon expedit(ふさわしくない)であったことに由来する。つまりカトリック教会は、一八四八年、ジョベルティ(Vincenzo Gioberti 1801-1852)の首唱した《イタリア統一の中心は教皇である。そして教皇は、諸君主の連合を通じてイタリア半島を統一することができる》というネオグェルフィズモの期待と幻想が崩壊し、教皇ピオ九世がローマを捨ててガエータに亡命してからは、一挙にイタリア国家の独立と統一に敵対的となり、その統一後も非妥協を貫きつづけた。その結果、イタリア・カトリック教徒は、前述した如く、国政選挙に参加することを禁じられていたのである。しかも、この《non expedit》はカトリック教徒にとって一定の教義的拘束力をもっていた。それは、一八六四年の《謬説表》Sillabo-そこでは異端八〇箇条として自由主義と近代世俗国家の諸概念が糾弾された-から一八七〇年ヴァチカン公会議における《教皇不可謬権》Infallibitasの教義宣言に至る教皇至上主義の完成と、カトリック教会の中〓集権化を契機とするカトリック教会のイデオローギ的再編成過程とに深く関っていたからである。したがって、人民党という■がカトリック教会によって一定の承認を得るということは、当然のことながら、《non expedit》が公式に廃棄されることを意味するのであり、それまでの政治と宗教に関する教義的前提が根底的にくつがえされることを意味したのである。しかし、この点に関しては、きわめて微妙な問題が生ずるのであって、単純に、カトリック教会がそれまで否認しつづけてきた《政治》の《宗教》からの自律性を承認したと考えてはならないのである。そして、人民党の運命もこの問題に大きく関わっていたのである。この微妙な問題の一つが、人民党の非宗派性aconfessionalitaの問題である。人民党という名称が選択されたことにも一定の意味があって、本来なら《キリスト教民主主義》という名称が与えられるべきところであったが、非宗派性を前提するという意味において、《キリスト教》という形容はしりぞけられたのである。もちろん如上の問題は原則的理念上の問題であって、現実の人民党はカトリック宗教政党にすぎなかったではないかと言うことも可能なのである。しかし、第一次大戦後のイタリアにおける人民党の特異な歴史的意義と役割を考慮するならば、この原則的理念の問題は、たんに宗教-政治思想史的観点からのみならず、具体的な政治-社会構造との関連においても考えられなければならないのである。それゆえ、人民党の成立によって、カトリック教会は真実近代的な政治概念を受容したのか否かを探求するためには、非宗派性の問題をカトリック宗教-政治思想の問題としてとらえるとともに、歴史的具体的な現実との対応のなかで明らかにしてゆかなければならない。そこで、人民党結成にきわめて大きな役割をはたし、《イタリア人民党の名前はルイジ・ストゥルツォの名前に分かちがたく結びついている》といわれたL・ストゥルツォ(Luigi Sturzo 1871-1959)の政治思想形成を分析することによって、人民党の非宗派性という原則がいかなる起源と意味をもつのかを考察してみたい。とくに初期のストゥルツォが南部問題との対決において政治的経験を蓄積し、キリスト教的政治概念に具体的な内容と規定性を与えていったことは、政治と宗教という一般的な問題を考察する上でも、きわめて重要な手がかりを与えると考えるのである。
- 1974-03-20