「デカメロン」における愚弄のテーマ
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概要
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〔訳者後記〕一九七二年、パリ大学より(UNIVERSITE DE LA SORBONNE NOUVELLE, Centre Censier, 13, rue de Santeuil, Paris V^e)「ルネサンス・イタリア文学における《愚弄》の形式と意味」と題する論文集が発行された。編者のアンドレ・ロション教授の序文において強調されているように、同書は、個々ばらばらの個別研究を収録したものではなく、パリ大学を中心とした各地の少壮研究家をメンバーとする集団研究の成果として誕生したものであり、研究の方法、および、その内容において、一つの新しい野心的な試みであろうとするものである。このような試みにおいて必然的にたちあらわれてくる基本的問題、つまり個人研究と集団研究の関係という問題にたいしてとられた解決法と同書成立の過程は、次のようなものである。まず、この共同研究の構成員それぞれの個別研究領域を包括するような一般的テーマ(ルネサンス・イタリア文学における愚弄)を選択。各自がこの一般的テーマにそって、その専門とする領域で研究報告書を作成。こうした報告書を各研究会の二週間前に研究チーム全員に配布し、研究会でこれを討議。ここで批判検討し、問題が深められ、研究面での新しい指針が提示され、新たに報告書が作成される。さらに、再度これを集団的に検討し、最終的な手直しを加えた後に、論文形式にまとめる。このようにしてできあがった論文を収めたものが同書であり、そこではボッカチオ、マキャヴェッリ、グラツィーニ、バンデッロ、ストラパローラ、パラボスコ、ジラルディなどがあつかわれている。本稿は、同書巻頭の、「デカメロン」における愚弄をテーマにした論文の二章第一節までを訳出したものであるが、原注はすべて省略した。限られた紙面でこの論文全体の構成と論者の視点についての理解の手掛りを与える便法として、ここに訳出できなかった二章第二節以下を標題を追ってメモ風に紹介してみたい。○印以下は、その節の分析において得られた結論の一部を、極めて恣意的に選んで示したものである。二の2-抑圧された攻撃性のはけ口としての愚弄。七日目第二話のペロネッラの話を中心に分析がすすめられる。○愚弄の明確な原因からは、愚弄の意味を究めつくすことも、愚弄の形態やその結果を説明することもできない。○愚弄はその潜在的動機に一致している。○多くの愚弄につきものの残酷さや卑猥さは、愚弄する喜びの((純粋な))あらわれとしてよりも、むしろ抑圧された攻撃性の爆発として考えられる。三 危機の徴候としての((愚弄))三の1-社会的危機の徴候としての((愚弄))。商人との身分ちがいの結婚をした貴婦人たちがおこなう愚弄がとりあげられている。○愚弄は、ひとつの爆発的な社会状況を露呈するものとして、また個人的な発意と社会的規律とのあいだの調停を可能にするプロセスとしてあらわれる。〇三日目第三話および七日目第八話の主人公たちが夫にたいしてとっている姿勢のなかに、十四世紀半ばのフィレンツェにおける市民と貴族との対立が反映している。しかし、この二つの話のなかでは、底流をなす社会的闘争はうまく隠され、個人的闘争の次元に還元されており、そのなかで愚弄は、危機にひんしたヒエラルヒーの内部に、((知的な))ヒエラルヒーをうちたてる(とくに、三日目第三話、第六話)。○商人市民層と貴族階層との社会的・経済的対立関係は、婦人を嫉妬ぶかい夫に、あるいは無教養な夫に対立させる闘争に変容している(三日目第三話、第五話)。三の2-文化的危機の徴侯としての愚弄。四 集団的((愚弄))四の1-((愚弄))の都フィレンツェ。マーゾ・デル・サッジォとその仲間(八日目第五話)、マルテッリーノとその仲間(二日目第一話)、ブルーノとブッファルマッコがカランドリーノにしかける愚弄(八日目第六話、九日目第三話)、およびビオンデッロの愚弄(九日目第八話)などがとりあげられている。四の2-集団的((愚弄))による好ましからざる分子の制裁/排除。カランドリーノの分析が中心。○カランドリーノは、愚弄される者のもつ主な弱点をすべて備えている。要するに彼は、反フィレンツェ人の典型、((街のインテリたち))の共同体から排除されるべき人間のシンボルとしてあらわれる。愚弄は、こうした排除に相応の儀式を構成する。○ブルーノとブッファルマッコの集団的な((純粋な))愚弄は、ひとつの共同体からのすべての好ましくない分子の排除を可能にする、制裁としての価値をもつ。五 ((愚弄))の多元的決定。○すべての愚弄は、初めはひとつの明確な作用(差し迫った脅威、好奇心の覚醒、倫理的ないしイデオロギー的挑発)にたいする反応である。従ってあらゆる愚弄には動機があり、必然的なものである。○すべての愚弄は、ある時点で、その純粋性の一部をのぞかせている。それは他人をうまく愚弄する快楽に対応している。○すべての愚弄は多元的に決定される。というのは、それが二重の
- 1976-10-01