ジェルトルーデを巡って
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概要
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ここで扱うジェルトルーデは、マンゾーニの小説「婚約者」に登場する一人物の名であり、一般に「モンザの尼僧」-Monaca di Monza-としても知られる。周知のように「十七世紀のミラノ史」の副題を有するこの歴史小説にあって、そこに扱われる人物は、歴史上の人物、歴史と創作との中間的人物、マンゾーニの創意になる理想(イデアーレ)の人物の三つに分類される。ジェルトルーデは、この分類の第二に属する。いわゆるPersonaggi Semiromanzeschiの一人であり、その典型と言っても良い。私は、マンゾーニの描いたこの悲劇的女性の一連の検討を通じて、史料の処理過程の問題と、なかんずく、その過程で現われてくる彼の文学理念の問題を考えてみたい。ところで、ジェルトルーデを特に取上げるについては、歴史と創作の中間的存在であるという右に示した事情の他に、それなりの理由がある。そこで、まず、ジェルトルーデの挿話の持っている性格と、その性格に由来する問題点にふれておきたい。私は、それを二面に分けて考察して行くことにする。ジェルトルーデの挿話の持つ性格にいて、まず考えねばならないことは、それが、「婚約者」全体のストーリーに対する関係である。つまり、モンザの尼僧のこのエピソードが、「婚約者」の物語の中で、一箇の独立し完成した筋書と構成を有しているという点である。「その物語は、「婚約者」の全体の構成にいかに有機的な関係で織り込まれていようとも、その扱いに於て、心理的に極めて異質のものを有し、それは殆んどatipico(異型)と定義してもさしつかえない」とサルヴァトーレ・バッタリヤ(Salvatove Battaglia)が述べているが、それはまた、心理的、或は倫理的な質の相違をも意味している。そして、異質の併存が、「婚約者」の構成上の或は思想上の統一を妨げない限り問題は無いが、事実はその逆であった事から、マンゾーニの苦心を呼ぶところとなった。マンゾーニは我々が今日知る「婚約者」(I Promessi Sposi;1824〜27)の他に、その原型たるGli Sposi Promessi(あるいはFermo e Lucia 1821〜23)と称する最初の草稿を書いているのであり、この草稿から決定稿への修正の過程で最も手を入れられた部分が、他ならぬジェルトルーデの挿話であった。挿話の「婚約者」全体に対する非均質性と、それより来たる修正の過程を主に倫理的観点より捉えること、これが、問題とする最初の側面である。ジェルトルーデの挿話の持つ性質の第二点は、その歴史との関わりである。少なくとも最初の草稿(Gli Sposi Promessi)で見る限り、「婚約者」に登場するあらゆる主要人物の中で、ジェルトルーデほど、史実に忠実に描かれている人物は無い。主人公のレンツォとルチア、或はドン・ロドリーゴやドン・アッボンディオはマンゾーニの全くの創造人物であり、フラ・クリストーフォロやインノミナートにしても、そのモデルが辛うじて推測されるというに留まるのに反し、小説に於て以上の人物達と同程度に重要な役割を演じたこのジェルトルーデは、その挿話に関して、史家ジュゼッペ・リパモンティの史料に実に忠実に描かれているのである。これには、ひとつの意図が働いていると考えたい。つまり、マンゾーニは、先にショーヴェ氏への手紙で理論づけ、後に「歴史小説論」でその不可能を自ら説くところとなった、彼独自の歴史小説に関する創作原理(ポエーテイガ)を、ここに再び実践しようとしているのである。歴史が言わばクロノロジックな事件の表記であるとするなら、この歴史が沈黙してしまった、事件に付随する人間の諸々の感情がポエジーの扱う領域である。従って、歴史小説は、事件を自由に曲げることによって、作家に好都合なマテリーのみをそこに得るといった性質のものではなく、歴史により豊かな内容を与え、歴史をより大きな意味で完成させる積極的な目的を有する。かかる主旨を持った創作原理であるが、「婚約者」の最初の草稿に於けるジェルトルーデのエピソードほどこれをよく実践している例はあるまい。ところが、決定稿に於ては、この意図は、半ば放棄されたと考えてよく、この過程を主として形式的、或は美学的な観点から捉えることが、問題とする第二の側面である。私は、まず第一に、史実にあらわれるジェルトルーデを紹介し、次いでマンゾーニの倫理観についてふれ、最後に、最初の草稿と決定稿を以上の二つの側面から検討してみたい。
- イタリア学会の論文
- 1974-03-20
著者
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