皇帝ヨハネス八世の休日 : フィレンツェ公会議の一挿話
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概要
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コンスタンティノポリスに都を置いた帝国は、世にビュザンティオン帝国と称されているが、それは古代ローマ帝国を継承する中世ローマ帝国に他ならなかった。古代帝国が周辺に多大の文化的影響を与えたように、この「第二のローマ」も、特に東ヨーロッパに文化を光被したのである。さて、帝国最末期のパライオロゴス朝第十二代の皇帝ヨハネス八世は、一三九二年十二月十六日または十七日に生れた。父は第十一代マヌエール二世(一三九一-一四二五)、母はヘレネーで、ヨハネスは六人兄弟の長子であった。その頃、さすがの帝国も老朽化し、特にオスマン・トルコによる外圧が、帝国を衰退に追いやっていた。十四世紀前半には、主として小アジアが侵略されたが(一三二六年、ブルサ、一三三一年、ニカエア、一三三七年、ニコメディア)、一三五六年、トルコは初めてヘレスポント海峡を渡り、マルモラ海の西の出口を握る要衝ガリポリを占領した。一三六一年には、コンスタンティノポリスの西北二〇〇キロの名邑ハドリアノポリスが陥落し、一三六五年頃にトルコの首都となった。一三八九年、セルビア、一三九三年、ブルガリアがそれぞれ征服された。一三九六年、ハンガリー王ジギスムントを総師とする十字軍もニコポリスにて惨敗した。コンスタンティノポリスも一三九四年より陸上封鎖されていた。ヨハネス出生当時の東欧の情勢は、このようなものであった。マヌエール二世は、一三九九年十二月十日、援助を求めて西欧旅行に出発、ヴェネツィア、パリ、ロンドンなどを歴訪した。その際、妃と長男ヨハネス、次男テオドロスをペロポンネソス半島のモネムバシアに疎開させた。一四〇二年七月二十八日、アンゴラの戦いでトルコは、サマルカンドのティムールに敗北、分裂状態となった。マヌエール二世はトルコの内紛に介入し、新たにスルタンとなったメフメット一世(一四一三-一四ニ一)と友交関係を樹立した。かくして外敵侵入の恐れがなくなったので、マヌエールはコンスタンティノポリスをヨハネスにまかせ、テサロニカを経てペロポンネソス半島に入った(一四一五年春)。この地にはミストラを中心とするビュザンティオン領と、それを三方から包囲するように西欧系のアカイア公国があった。他にモドン、コロン、アルゴス、ナウプリアをヴェネツィアが領有していた。皇帝は、コリントス地峡にヘクサミリオンとよばれた防壁を再建させ、帝威を再認識させた後、一四一六年三月にコンスタンティノポリスに帰った。代って同年秋、ヨハネスが派遣された。ヨハネスは軍事的才能を持っていたようである。当時のミストラのデスポテースは、一四〇七年以降ヨハネスの弟、テオドロス二世が継承していた。ヨハネスはビュザンティオン軍を指揮して、アカイア公チェントゥリオーネ・ザッカリアと戦い、メッセニアとエリスを占領した。のち一四二六年、ヨハネスはケファロニアとエピロスの君主カルロ・トッコ伯に戦いを挑み、翌年パトラス湾の入り口における海戦で敵を敗った。トッコは南ギリシアの領有をあきらめ、それを持参金としてヨハネスの弟コンスタンティヌスと結婚させた。ヨハネスは弟のために新しい国をつくってやったといえる。ヨハネス第一回目の遠征中に、彼の幼い妻アンナは悪疫のために死んだ。一四二一年一月十九日、ヨハネスの結婚式と戴冠式とがとり行なわれた。この日、彼は共治帝となり、かつモンフェラート侯の娘、ソフィアを妻とした。(ソフィアは美しい体を持っていたが、容貌が醜くかったためであろうか、夫婦仲は極めて悪く、彼女は五年後にイタリアへ逃げ帰った)
- 1974-03-20
著者
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