イタリア・ルネサンスにおけるヴェネツイアの位置 : Geanakolos, D.J, Greek Scholars in Veniceに関連して
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概要
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よく知られているように一八六〇年ブルックハルトの「イタリア・ルネサンスの文化」が公刊されて以来、もともと「学芸の復興」という意味で用いられていた「ルネサンス」という語が「前代にその比を見ぬ新しい要素をもつ時代」という全く新しい概念として拡大されるは至った。所で二十世紀になつて急速に進歩したヨーロッパ中世史の研究は、ブルックハルトの与り知らぬ中世の文化にルネサンスの淵源を探らんとする趨勢を惹き起し、遂にはルネサンスという時期を中世に吸収せんとする傾向も出現した。さて、コンスタンテッヌポリス(以下、君府と略称する)に一四五三年迄存在したローマ帝国(ビュザンティオン帝国とも呼ばれるが)に関する研究も近時益々隆盛に向いつつある。一般にビュザンティオンにおける文化は、古代の文化が僅かに余喘を保っていたに過ぎぬと解釈されて来、従ってルネサンスへの影響は過少評価されがちであった。しかし例えばポーランド出身の磧学ハレツキによると、「東ローマ帝国は、既に君府を取り巻くアジア人の勢力(オスマン・トルコ)に圧倒されていたので、政治的には十四世紀後半の出来事は、ヨーロッパのどの地域よりも決定的ではなかった。だがビュザンティオンは残された僅かの領土しか保持しなかったとはいえ、文化的にはルネサンスと呼ばれる新しい時代に西ヨーロッパと共に入った」。そしてハレツキはこの未開拓の分野におけるヴァシリエフの業績を強調する。要するにビュザンティオンには千年以上にわたる文化の蓄積があり、その最末期(パライオロゴス朝、一二六一年-一四五三年)には同時代のイタリアと共に注目すべき文化の興隆期に入っていたのである。ヴァシリエフはこれを綜括的にとらえて「ギリシア=イタリア・ルネサンス」なる呼称を与えている。パライオロゴス朝文化、特にペロポンネソス半島に存在したモレア専制国の文化について触れるのは他の機会に譲るとして、ここに紹介したいと思うのはヴェネツッアを中心としたギリシア人の活躍について述べられた、Geanakoplos, D.J., Greek Scholars in Venice:Studies in the Dissemination of Greek Learning from Byzantium to Western Europe, Cambridge, Mass.(1962)である。ゲアナコプロスはイリノイ大学歴史学教授で、自己の博士論文を敷衍した「ミカエル・パライオロゴスと西欧」を公刊して十三世紀地中海世界の相互交渉に関する権威として認められた。ゲアナコプロスは今回の新著発表以前に次の予備的な論考二篇を書いている。"A Byzantine Looks at the Renaissance:The Attitude of Michael Apostlis toward the Rise of Italy to Cultural Eminence, "Greek, Roman and Byzantine Studies, I(1958), 157-162."Erasmus and the Aldine Academy of Venice:A Neglected Chapter in the Transmission of Graeco-Byzantine Learning to the West", Greek, Roman and Byzantine Studies, III(1960), 107-134
- イタリア学会の論文
- 1966-01-20
著者
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