フィレンツェ公会議のイタリア人文主義に与えた影響について(1)
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概要
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フィレンツェ公会議は、一〇五四年以来分裂していた東と西とのキリスト教会を統一するために開かれた、最後の、そして最大の会議であった。フィレンツェ公会議に関する史料集、個別研究などは山積しているが、私は一九五九年に刊行されたGill, J., The Council of florence.Cambridge(1959)〔以下GILL, Iと略称する〕と、一九六四年に刊行されたGill, J., Personalities of the Council of Florence, Oxford(1964)〔以下GILL, IIと略称する〕とを参考にした。前者は索引を含めて四五三頁に及ぶ労作で、フィレンツェ公会議の通史として定評がある。公会議に至る前史が三章あり(一、背景。二、マルティヌス五世とギリシア人。三、バーゼル公会議とギリシア人)、ついでギリシア人の到着からフェラーラにおける会議(四、ギリシア人の到着と煉獄に関する討議。五、信条への追加)、フィレンツェに会議の場が移って一四三九年七月六日の統一まで(六、フィレンツェと教義の討論。七、統一、聖霊の発現。八、統一、信条への追加、煉獄、聖餐、教皇の優越)、更に一四四三年九月、公会議の場がローマに移り、一四四五年頃の終了(九、公会議の続行とローマにおける終了)とビュザンティオン帝国での教会統一の反響(十、東における統一の受容)とでもって締めくくられる。四一六-四三二頁に、史料、概説、専攻論文に分類された詳細な文献表がある。後者は定規刊行物などに執筆された論文集で、主として東側の人物について(ビュザンティオン皇帝ヨハネス八世、総主教ヨセフス二世、ニカエアの府主教ベッサリオン、エフェソスの府主教マルコス・エウゲニコス、キーエフ及び全ロシアの府主教イシドレ。尚、西側から教皇エウゲニウス四世と枢機卿ジゥリアーノ・チェザリーニとの二人)述べられている。他に我々が入手困難であった史料の問題を論じた論考(一例をあげると、The Sources of the"Acta"of the Council of FlorenceはOrientalia Christiana Periodicaに一九四八年に発表されたが、今回、一三一-一四三頁に収録された)も数篇入れられているので、非常に有益である。以下、上記の二書を中心として、フィレンツェ公会議の概略を辿って本稿の背景としたい。
- イタリア学会の論文
- 1972-01-20
著者
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