アルフィエーリのバイロンに及ぼした影響
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概要
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一八一九年八月十二日付のマレーに宛てた手紙の中でバイロンは次のように書いている。「今日は、どうも気分がすぐれません。昨夜アルフィエーリのMirraがかかっていましたので見に出かけたのですが、最終の二幕は私にとってはまさに引付を起すほどの打撃でした・・・涙をこらえるつらさや息詰るような身震いに見舞われましたが、こんなことは、架空の作品に対して味わったためしのないことでした。」その時、同席したテレーザ・グウィッチョーリ夫人も、これを裏書きするかのように、次のように語っている。「それから悲劇が最高頂に達しますと、かれはもはや感情を抑えきれなくなってしまいました。大粒の涙がぼろぼろと流れ落ち、すすり泣く声に堪えかねて客席にいれなくなってしまったのです。ラヴェンナでアルフィエーリのFilippoが上演されました折にも、かれが、またこういう状態に陥るの見ました。」八月二十四日の日記にも見られるようにMirraを見た印象は、いつまでも生々しく残った。それには、感動やあこがればかりでなく、競争心も交錯し合っていたに違いない。スケリッロが巧みに指摘しているように、アルフィエーリは「バイロンにとっては堅振の秘蹟(una conferma)と言うよりは寧ろ啓示(una rivelazione)であった。」一八二〇年二月の日記にも、アルフィエーリを称えて、ドイツの劇作家たちに決して引けを取るものではないと述べている。ロマンティックな勇気に溢れる悲劇にいたく感銘を受けたばかりでなく、詩が人間的・民族的な意義をもつにいたったと感じたからである。これこそまさにバイロンが求めて止まぬものであった。そこで、シェークスピアと訣別して、アルフィエーリ流の悲劇をものしようと考えた。一八二一年七月十四日付のマレーに宛てた手紙の中で、かれの悲劇作品は、「シェークスピアの悲劇作品とは全く似ても似つかぬものであります。シェークスピアがいかに異彩を放つ作家であるに致しましても、お手本にする作家としては最悪であると思うからです。私の目標は、まさにアルフィエーリのように、簡潔・厳格(simple and severe)であることです。それから、私にできる限り、詩を普通の言葉に直してみたかったのです。」と述べている。このラヴェンナからの便りは、「政府による暴逆の嵐」が荒れ狂うさなかに寄せられたものであった。共和主義への熱望が火と燃え、それが斗士の怒りとなった時のことであった。アルフィエーリ風の悲劇を書くには、まさに期は熟しすぎていたと言える。この熱気を帯びる雰囲気の中で、ヴェネツィアを舞台とするMarin Faliero(一八二〇年)を書いたが、これは、バイロンの言葉に依れば「我が国の戯曲(こうへり下って言うのは、あの偉大な人物を指しているからである)の一作品ではなくて、アルフィエーリのあるドラマに似かよったものである」。しかし、Manfredと同様に、詩的な作品であって、舞台向きのものとは言い難い。だが、さらに、この試みを続け、「ギリシア人のように」、つまり、アルフィエーリの「古い作法に依って^<(4)>」Two Foscari(一八二一年)を出した。最徐に、なおも飽きることなく、Sardanapalus(一八二一年)を書いたのである。この作品は、バイロン自身も認めているように、自由闊達にして作らない自然なところがあり、悲劇として耐えるものでないにしても、バイロンの戯曲の最高傑作であると言うことができる。
- 1968-01-20