バイロンとイタリア : その序
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概要
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バイロンがイタリアに与えた影響は計り知れない。また、バイロンほどイタリアを愛し、イタリアの中にとけこんだ詩人も稀である。無論、バイロンのほかにも、当時の英国には、ブラウニングややシェリーあるいはランダーのように、その生活が祖国と同じぐらいにイタリアと密接なつながりをもった詩人がいたことも事実である。しかし、アンナ・マック・マハン夫人が指摘しているように、バイロンは、他の誰にもまして、考え方から風俗習慣の面にいたるまでいちはやくイタリアに同化し、イタリア国民の社会・歴史・思想の中に深く透徹しえた人であった。そのもっとも大きな原因としては、後に詳しく述べるように、動乱期の青春に特有な恋愛と革命の二要素があったことは見逃せない事実であろう。バイロンは波乱万丈の数奇な女性遍歴を経た人であるが、かれの最後のそしてもっとも長く続いた愛は、グウィチョリ夫人との生活であった。それから、みずからすすんで秘密結社の支部長となったり、三色旗を自宅のバルコニーに掲げたり、無論イタリア語は正確に話したり書いたりすることができ、イタリア文学に対する造詣も深く、また畢生の大作をイタリア語でものにしようと考えたりするほど、かれのイタリアに対する心酔ぶりは深かったのである。言うまでもなく、イタリアを題材にした作品は多く、英国人がイタリアを理解するようになったのも、実はバイロンを通じてのことであると言っても決して過言ではない。チョーサーがイタリアの物語(ラツコント)を模倣あるいは採用したり、シェークスピアやエリザベス王朝時代の人たちがさかんにイタリアの小話(ノヴェツラ)を戯曲化したり、またミルトンがイタリアの詩作法を踏襲したことは、今さら述べるまでもない衆知の事実であるが、上記の人たちが、程度の差こそあれ、結局はいずれもイタリア文学の模倣者ないしは彫琢者といういわば外的な立場を一歩も出なかったのに対して、マック・マハン夫人の言葉を借りると、《バイロンは英語でものを書くイタリア人のように思われる》ほど、イタリアとイタリア文学から深い影響を受けたのである。逆にいえば、バイロンがこのように深くイタリアに同化しえたからこそ、イタリアに空前の大旋風を巻き起すことができたのである。かれの著作活動の最後を飾るもっとも多作だった時期は、英国を去ってからの八年間、つまり、イタリア到着前にスイスで過した最初の数ケ月とギリシアで過したわずかな月日を除いては、すべてイタリアで過ごした期間である。その解放のためには生命も財産もすべてを投げ捨てて尽したギリシアに対するバイロンの愛と献身は余りにも有名であり、またそれはまったく当然のことであるが、その愛にも劣らぬイタリアに対する愛は、残念ながら、余り高く評価されていないようである。それで、これから紙数の許す限り、バイロンのイタリア滞在の意義をまとめてみたいと思う。
- 1966-01-20