額田王の「宇治の都の借廬」詠について
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
額田王の最初期の作として知られる『萬葉集』に収められた「宇治の都の借廬」詠(巻1・七番歌)の背景について考察し、ついで、この作の表現意図に迫ろうとするものである。従来、『古事記』『日本書紀』に記された歴史観に基づいて、ウヂノワキ郎子とオホサザキノ尊との皇位を譲り合う美談が展開され(空位三載)、ウヂノワキ郎子の逝去で以ってオホサザキノ尊の即位が実現し、ここに聖帝仁徳が成立するとされてきた。しかしながら、『山背国風土記』(逸文)等に見られる記述を分析すると、史実は別として、少なくとも説話としての宇治天皇の存在が明らかとなってくる。即ち、宇治の地にウヂノワキ郎子は宮室「桐原日桁宮」を持ち、そこが都と称されていた。こうした宇治大王説話を背景として、額田王の「宇治の都の借廬」詠は作られていると考えられる。このように見て初めて、額田王の歌詠における「宇治の都」という表現の意図するところが明らかとなってくる。これまで、「宇治の都」とは、単なる行旅における宇治での行宮の称であると理解されてきたが、ここに「宇治の都」とは文字通り宇治大王の皇居の存した故地の称となってくる。と共に、「宇治の都の借廬」と表現されたその表現意図も明確となる。即ち、雅としての「都」の表現と、その対極に位置する「草葺きの借廬」という表現の落差が奏でる響きをも含ませた歌であることが浮き彫りとなってくるのである。
- 2003-03-25
著者
関連論文
- 多度山美泉と田跡河の瀧 : 天平十二年聖武行幸時の萬葉詠から
- 額田王の「宇治の都の借廬」詠について
- 内田賢徳著, 『上代日本語表現と訓詁』, 2005年9月10日発行, 塙書房刊, A5判, 482ページ, 11,000円+税
- 上代における拗音の仮名について
- 「草蔭の安努」考 : 三重万葉研究(二)
- 但馬皇女と穂積皇子の歌について : 「言寄せ」の世界
- 鄙に目を向けた家持