中東問題の根元と和平努力
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
永い歴史をもつ中東問題はパレスチナの将来をめぐる紛争が発端であったが国際社会では今日も尚その解決への糸口が模索されている。イギリスの委任統治下にあったパレスチナにおける人口構成は3分の2はアラブ人で3分の1がユダヤ人というものであった。1947年に国連に持ち出されたが, 当時からその主要議題の1つとなってきた。1991年7月, ゴルバチョフソ連大統領とブッシュ米大統領は首脳会談後, 共同声明を発表して同年10月に米ソ共催のもとに中東和平会議を開くことを発表するなど, 中東問題解決への機運が一段と高まった。ゴラン高原やヨルダン川西岸の占領地を手放さないとするイスラエル側とアラブ諸国間にはいくつかの課題が残されている。イスラエルは中東和平会議への東エルサレムのパレスチナ代表問題でも妥協する姿勢をみせていない。ソ連における最近のクーデターによる政変のため中東和平会議の行方が一時危ぶまれたが, その後も, 米ソ間の歩調は崩れず, 両国の和平努力に期待が寄せられている。しかし, イスラエルと米国間の信用保証供与(ユダヤ人入植のための住宅建設資金100億ドルの審議延期をブッシュ大統領は議会に要請した。)の問題もあり楽観できない情勢にあり, 和平会議に微妙な影響を与えることになった。そして, 1991年9月28日アルジェで開かれたパレスチナ民族評議会(PNC)は中東和平会議へのPLO参加で前向きの姿勢を示したが, イスラエル側の反応は依然としてPLOを交渉相手としない態度をくずしておらず難航が予想される。1978年に実現した, エジプト, イスラエル, 米国間での合意(中東和平の枠組み及びエジプトとイスラエル間の平和条約-これに基きイスラエルは82年4月までにシナイ半島をエジプトに返還することになった)とでは事情が異なることは指摘するまでもない。10月30日から3日間マドリードで開催された和平会議では予想どうり占領地返還問題が焦点となったが, 結局, イスラエルの譲歩はみられず, 完全撤退を要求するアラブ側との間に改めて大きな対立を残すことになった。中東地域の和平を模索する動きは今後も続くことは間違いないが, アラブ諸国とイスラエル間に存在する根強い問題の解決がない限り, 大きな進展を期待することはできない。本論はこの問題の歴史的背景を直視し, その政治的解決への可能性について論及するものである。