ジョージ・ハーバートとその形而上詩 : 内なる声と愛の実相
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概要
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シェイクスピアの時代は, ルネッサンスの華といわれ, ヒューマニズムが高らかに謳歌された時代と, 一般に考えられているが, 果たして内実共にそれは事実であろうか。その後に続く形而上詩人達が, 宗教的なアンティ・テーゼを提示して, 神による秩序の回復, 神との和解を求めていたという事実を考える時, 必ずしも, それを額面通り受けとることはできない。時代はいつも錯綜している。クリストファ・マーロー(1564∿1593)やウィリアム・シェイクスピア(1564∿1616)が人間礼讃を叫んでいた時に, ジョン・ダン(1572∿1631)やジョージ・ハーバート(1593∿1633)は説教を語り, 祈を捧げ, 魂の救いを求めるような詩を書き始めていたからである。エリザベス朝という時代をよく把握するためにも, 我々はアンティ・テーゼの形而上詩人達の姿を理解しなければならない。ここでは, ジョン・ダンに続いて重要な位置を占めるジョージ・ハーバートを考えることによって, この目的の一助としたい。形而上詩人ジョージ・ハーバートは, 晩年の数年間の宗教的生活において, 幾多の詩を残したが, その代表作The Temple : Sacred Poems and Private Ejaculations (聖堂 : 聖詩と内なる叫び)において, 如実に, 彼の信仰を告白している。彼の詩は, 彼自身が英国有数の名門ハーバート家の出であるということ, ケンブリッジ大学の代表演説者となったこと, ジェームズ一世治下の宮廷生活を楽しんだこと, ジョン・ダンと知己を得るほどの聡明な母親をもったことなどを, 一連の背景として認識した上で, 考えられなければならない。併し, 彼は1625年, ジェームズ一世の逝去と共に, 明確な理由もいわずに, 突然, 宮廷生活を離れ, 司祭となって宗教生活に入り, 晩年の三年間は, 「田舎司祭」として, 貧しいベマートンの教区を守りつつ, その一生を終える。彼の代表的詩集『聖堂』の中には, 自伝的な詩「苦悩」を始め160余にわたる宗教詩があり, また, 愛に関する詩が幾つか残されている。この愛の詩を中心として, 彼の詩の特質を考えてみたい。彼の詩は, いわば神と己れの魂との不断の対話である。それは, 完全に救いを得たとか, 悟りを開いた者の告白ではなく, むしろ, 神の意志に己れの意志を捧げる前の, 神と人間の魂との霊的な闘いの記録である。いわば, ルネッサンスを経験した近代人の呻きである。彼はこの闘いのうちに完全な自由を見出す。彼は旧約聖書の原点に返って, 「土と罪」の認識を強く持ちつつ, 敬虔な思いのうちに, 単純だが力強い詩調をかなでる。時々, 全く子供じみた詩形や韻律をとるが, それは内容と巧みに一致しており, 彼が「巧みな音楽家」(ヘレン・ガードナー)であるのではないかと思わせる。彼の言う愛とは, ***スとしての愛ではなく, ロゴスとしての, アガペーとしての愛であり, 命令する者であり, 食事を共にする者であり, 永遠不滅の火ともなる者である。このような主張の中に, 我々は, シェイクスピアと同じように, ルネッサンスの曙を経験した十七世紀人の苦悩を, 表現こそ違え, 認識することができる。E. M. W. ティリアードの「エリザベス女王がボエティウスを訳し, ローリーが探険家であると同時に神学者であったことや, 説教が熊いじめと同じように, エリザベス時代の生活の一部をなしていた」という言葉は, 我々の, このような認識が誤まりでないことを示唆している。
- 1974-03-31
著者
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