名古屋社中の形成と「国学」学びの展開
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概要
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尾張地方において、国学が普及する上で大きな勢力をもっていたのは、田中道麿とその社中であり、彼らは宣長が寛政元年に名古屋へ出講する以前から国学の学びを展開していた。天明4年に道麿は死去するが、その後は、道麿社中の主な人々は宣長に入門した。こうした状況の中で、宣長が名古屋に出講し、漸次門人の増加をみた。尾張地方のこれら宣長門人たちは、その内の幾人かが会集し、連絡を取り合っていくなかで次第にまとまりができ、名古屋社中としての組織が形成されていった。こうした鈴屋の社中の基本的な性格としては、「社中は地方在住の門人が相互に連絡し、便宜を図るための組織として誕生したもので、鈴の屋塾からの情報の伝達はもちろん、通信教育のさいの往復書簡の集配や授業料の一括納入などに活躍したが、一方ではまた、時おり集会して勉強するための組織でもあった。」といってよいであろう。その際、各地に散在する宣長門人がこのような社中としてまとまっていくには、鈴屋と彼らの間に介在して世話役を務め、門人の組織化を進める中心的な人物が存在して初めて可能になる。本稿では、このような世話役の存在に注目して名古屋社中の形成の過程をたどり、次いで、宣長没後も名古屋社中において指導的な役割を果たした植松有信(宝暦8年[1758]~文化10年[1813])を中心として名古屋社中としての「国学」学びの様相を考察していきたい。
- 岡山大学の論文
著者
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