身体は見えるものである--理学療法からダンスへ (特集 臨床現象学--精神医学・リハビリテーション・看護ケア)
スポンサーリンク
概要
著者
関連論文
- 何が思考を呼び求めるのか?--こどもと哲学のあいだ
- 身体は見えるものである--理学療法からダンスへ (特集 臨床現象学--精神医学・リハビリテーション・看護ケア)
- 身体が言葉を失った時--非言語的なやり取りから生まれる身体の意味について
- 共振する身体--脳卒中後遺症の人に対する動作指導時の非言語的指示について考える
- 103 短期入所施設を利用している家族と施設職員との間で行われた哲学的な対話の実践 : カンファレンスや家族会とは異なったコミュニケーションの可能性を探る(生活環境支援系理学療法II)
- 上下・左右・前後という方向性を半側空間無視の人に伝えるために(一般,「コミュニケーション研究の今,その先」及び一般)
- 肉と鏡 : メルロ=ポンティの「肉の哲学」と精神分析
- いま改めて聴くことの意味を考える (特集 語りを聴く)
- 「病」の認識論に向けて : 家族療法からシステム論へ
- 異他的なものへの応答 : 応答的現象学の基本輪郭 (塚嵜智教授退官記念号)
- 「からだトーク」あるいは身体表現ワークショップの映像記録化について
- 今、ここの自分から離れるということ--舞踊によって生みだされる身体と観客の身体が出会った時に見い出されるリズム (特集 舞踊・共創コミュニケーション)
- 身体ワークショップ(その1)高齢者デイサービス「祥の郷」での試み
- まなざす身体--脳卒中後遺症の人の視野と運動の関係について
- CSCDインタビューズ : CSCDの顔を撮る
- 空間知覚は身体表現と共になされるものである : 左半側空間無視の人はパースペクティブを失うことは出来るのか
- 「現場力」ノオト(2012年・春)
- 強度のシステム--『差異と反復』におけるフロイト解釈に寄せて
- 「どっちに入るかな?」フラフープを利用した授業から : 小学校で哲学する(2)
- 教えない授業は可能か? : 対話学習と対話進行役養成プログラムにおけるネオ・ソクラティクダイアローグの活用
- 意識の自己準拠--意識の超越論的哲学とシステム論の関係について
- からだトーク/生まれる
- 2011年度 CSCD広報デザインワーキンググループ活動の記録 : CSCDの活動についての大阪大学学内における認知度向上の試み
- 光景と対になる身体 : 左半側空間無視を呈する人を始めとして私たちが上下・左右・前後という方向性を獲得するために
- ソーシャルマーケティングの手法を用いた学内コミュニケーションデザインの試み : CSCD広報デザインワーキンググループの活動報告
- 洛星高校での授業について
- 「現場力」ノオト(2010年・秋)
- 「現場力」ノオト(2011年・春)
- 医療・福祉現場でのカンファレンスと哲学的対話の接続可能性--理学療法士・作業療法士の観点から
- 意識の自己準拠--意識の超越論的哲学とシステム論の関係について
- 「現場力」ノオト(2011年・秋)
- ひとつではない哲学〈中之島哲学コレージュ〉
- 哲学者の実践としての〈探究のコミュニティ〉
- 身体ワークショップ(その1) : 高齢者デイサービス「祥の郷」での試み
- 何が思考を呼び求めるのか?--こどもと哲学のあいだ
- まぶしく光り輝いて : 師についての回想と教説 (鷲田清一名誉教授 退職記念号)
- CSCDインタビューズ : CSCDの顔を撮る
- 馴染む身体馴染まない身体 : 脳卒中後遺症の人に対する感覚統合訓練とポジショニングの新たな意味とは
- 「からだトーク」あるいは身体表現ワークショップの映像記録化について
- 身体が言葉を失った時 : 非言語的なやり取りから生まれる身体の意味について
- 「ここ」は「何所か」、「何所か」は「ここ」、あなたでも私でもない身体のダンス : 勅使川原三朗《ガラスノ牙》
- 我々は物とどのように出会っているか : 洛星高校での授業の経験を通して
- 我々は物にどのように出会っているか?
- 共振する身体 -脳卒中後遺症の人に対する動作指導時の非言語的指示について考える-
- 臨床哲学にとって"メチエ"とは