文献史料からみた法隆寺の火災年代
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概要
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法隆寺が創建後百年を出ないで火災に遇ったことは、『日本書紀』天智紀や『上宮聖徳太子伝補閾記』の記事で有名である。しかしその年代をめぐっては、周知の通り明治三十八年以降活発化した所謂再建非再建論争の中で激論がたたかわされた。その詳しい経過は、別に要を得た紹介があるの駕省略に従うが、再建論が天智九年(六七〇) の記事を正しいとして、火災をこの年と主張したのに対し、非再建論では、天智九年より六十年(干支一巡) を遡る推古天皇十八年(六一〇)にその年代を充てた。これらはいずれにしても庚午年という干支に信を置く点で共通する。それに対し、皇極天皇二年(六四三) における斑鳩宮の焼亡時に、斑鳩寺も類焼したとする説も提起された。このような中で、戦前から戦後にかけ、西院伽藍南東の若草伽藍跡や東院の下層遺跡が発掘調査され、論争は転機を迎える。即ち若草伽藍の発掘では、西院伽藍に先行する伽藍の存在と火災による焼失が裏付けられ、これをうけて天智九年の火災が広く認められるようになった。また東院地下の発掘によって、斑鳩宮跡と推定される宮殿の遺構が検出され、それが火災によって焼亡していることが判明、さらに西院伽藍の軒平瓦に先行し、その祖型になったとみられるパルメット文の軒平瓦が発見された。以上の結果から、若草伽藍の地に創建された斑鳩寺は、当初斑鳩宮と併存していたが、まず皇極二年に宮が焼け、残った寺も天智九年に焼亡したとする見方がほぼ定説化したといえる。しかし一九七〇年代に入って、この定説に対する重要な異論が提起『日本書紀』の記事に結びつける確証があったわけではなかった。さきの編年観に関しては、考古学研究者の問でも異論はあるものの、別に建築史の面から、西院伽藍の造営開始を斉明朝あたりまで遡らせるべきであろうとする説も出されている。天智九年火災説は、新たな拠りどころを挙げるべき段階に入ったといってよかろう。もっとも法隆寺の火災年代を確定することは、再建非再建論争を経ても不可能であった程の難題であり、解決は容易でない。ただ、それでもなお従来見落とされてきた事実もないわけではないので、ここに私見を述べて諸賢の批正を仰ぎたいと思う。
- 奈良大学文学部文化財学科の論文