「中東鉄道海洋汽船」と極東の海運
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概要
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1990年代、中東鉄道海洋汽船というロシアの海運会社の旧社屋が日中両国で相次いで観光用に整備された。しかし、建物を所有した同社についての研究はいまだ本国ロシアにおいても等閑に付されている。本論は親会社である中東鉄道の研究の延長で興味を抱いた筆者が、20世紀初めのわずか数年間で姿を消したこの海運会社を、極東における海運史と中東鉄道の研究に改めて位置づけることを企図したものである。中東鉄道海洋汽船が19世紀末の極東の海運で必要とされたのには三つの理由がある。まず1870年代末からロシア政府と独占契約を結んでこの地域の海運を担ってきたシェヴェリョフ社が、しだいに貨客の増大に対応できなくなったというのが第一点である。第二点はロシアによる関東州の租借による新植民地の経営と、中東鉄道による南満州支線の敷設に伴う需要の急激な増大である。こうしたロシアの極東政策の新時代を劃す出来事の中で、特に新しい植民地航路創設の受け皿となったのが中東鉄道海洋汽船である。しかし、後手に回った弥縫策の感のある海洋汽船の設立は、シェヴェリョフ社や義勇艦隊の担ってきた従来の国内外の近距離海運や、関東州というロシアの新植民地への航路、それに中東鉄道との連絡(船車連絡)を融合させることによって、極東における総合的な運輸体系の確立で一角を占めようとする、積極的な意義も有していた。これが第三点である。日露戦争前の緊迫した状況下で、ロシア帝国の多大な力添えを受けた海洋汽船は日本側にとって脅威であった。折しも勃発した日露戦争に海洋汽船は巻き込まれる形となり、日本側の攻撃によって同社は壊滅する。本論はその後日談までを追って、海洋汽船の遺産を日本がどのように継承したのかにも言及した。
- 2006-12-20
著者
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