『原野の人生』への長い道のり : フィールドワークはどんな意味で直接経験なのか(第8回日本文化人類学会賞受賞記念論文)
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概要
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南部アフリカ狩猟採集民グイのもとでの30余年にわたる調査に基づいて、フィールドワークがどんな意味で直接経験であるのかを考える。出発点はゴッフマンの「直接的共在」である。ヨクナパトーファ譚と呼ばれるフォークナーの作品群は、独特な時間性を提起している点で、過去の出来事を素材にした民族誌を書くことに手がかりを与える。私が追求する民族誌記述の戦略は、口頭言語を身ぶりとして捉え、語りの表情を明らかにすることである。6つの談話分析の事例から以下の7点を語りの表情として抽出した。(1)親族呼称が間投詞として使用される際に、代替不可能な語の表情が際立つ。(2)共在の場にはグイに特有なハビトゥスと間身体性が滲透している。(3)語り手の身ぶりによって儀礼の本質を象徴する身体配列が現成する。(4)複数の語りの相互参照により現実の多面的な相貌が開示される。(5)語り手と調査者は、その相互間で、あるいはかれらと言及対象との間で、文脈に応じて変化する仲間性を投網しあう。(6)「話体」は、個々の語り手の修辞的な方策によってだけでなく、複数の語り手に跨がる相互行為の構造によっても規定される。それによって実存的な問題に身を処する人びとの一般的態度が照らされる。(7)語り手がある出来事を忘却していることを露呈するとき、その欠落の周囲に、事実の間の連結と記憶の相互的な補完とが浮かびあがる。以上の分析に基づき、民族誌と小説は人びとの生の形を描き出す点で共通しているが、世界との関わりにおいて大きな違いがあることを論じる。民族誌記述は、実在した談話の語り手(発話原点)との指標的な隣接性に基礎を置く。その隣接性を成り立たせる連結こそ、調査者と現地の人びととの直接的共在である。言い換えれば、民族誌の生命は、人びとの生の事実性がもつ、汲めども尽きない「豊かさ」に源をもつ。
- 2013-12-31
著者
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