文体の速度と感覚論哲学 : 18世紀のフランス語修辞学教科書における記述を中心に
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概要
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ルネサンスから18世紀初頭まで、フランスにおいてラテン語によっておこなわれていた修辞学教育は、実際にはラテン語教育、つまり単に羅仏・仏羅翻訳を学習する場となっていた。修辞学課程が本来の役割である「説得する技術」、つまり効果的な言説を構築する技術を習得させるという機能を失ってしまった背景には、言説の構築にかんするキリスト教的解釈がある。17世紀には神の言葉のみが真の崇高を体現するとされたため、神の息吹を受けた、生まれつき特別な才能をもった作家のみが理想的な言説を生み出せるという考えが一般的になり、その中で修辞学は言説の構築を修得するための教育という役割を失い、形骸化した。ところが18世紀になると修辞学は言説の構築にかんするキリスト教的解釈という呪縛から逃れる。ラテン語に代わってフランス語を使用言語とし、17世紀後半のフランス文学の作品を模範とした修辞学教育が始まると同時に、修辞学は言説を構築する方法を習得させるという本来の役割を取り戻したのである。アンシャンレジームにおいてフランス語による修辞学教育は、イエズズ会などの修道会が運営する中・高等教育機関、コレージュにおいて行なわれていた。コレージュに設置されていた修辞学課程は、3年ないし4年の文法課程を終えた学生が仕上げとして1年間、文学教育をとおして主にフランス語の言語表現を学ぶ場となる。この新しい「フランス修辞学」においては、趣味概念、美的判断力の養成が教育の主軸であった。またこの修辞学教育は、ラシーヌ、コルネイユらの文学作品にもとづいて言語を定着させようとしていたアカデミーフランセーズの言語政策の理念と合致したため、フランスにおける近代国家の成立においても重要な役割を果たしていた。前世紀においては崇高が神の専有する、人間には到達不可能な価値であるとされていたのに対し、18世紀には崇高概念の世俗化によって、崇高な言説を構築する能力は、修辞学的訓練をとおして獲得可能であると考えられるようになった。この過程において崇高は、感覚論哲学の発展にともない、速度と強度を兼ね備えた文体によって表現されると考えられるようになる。本稿においては、18世紀における崇高に関する言説一般と修辞学教科書における記述の分析をおこない、崇高の世俗化と感覚論哲学の発展が修辞学的価値にもたらした変化について明らかにしたい。
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