演奏批評・楽評と称する批評の形成 : 1898(明治31)年『読売新聞』の音楽批評
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概要
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本論文は、1898(明治31)年の『読売新聞』に掲載された署名入り音楽関係記事を読解することによって、明治期における「音楽批評」の形成を活写しようとするものである。明治初期から新聞雑誌では政治的、道徳的な観点による音楽改良が論じられ、さらに専門雑誌『音楽雑誌』では音楽理論や音楽研究をテーマとした論文が発表されてきた。しかし、音楽会での演奏そのものを対象とした「批評」が成立するためには、外在的な価値観だけでなく、批評家と音楽そのものの間の内在的関係が必要となる。具体的には「批評家」自身が音楽の専門知識をもち、演奏家や作曲家の専門性を批評しようとする態度が生まれて初めて、「音楽批評」が成立するといえよう。このような認識のもとに、具体的には「演奏批評」を意図して計画的に長文で執筆し、さらには「楽評」自体を批評する論考が執筆される段階となった1898(明治31)年の『読売新聞』の音楽批評全19点を取り上げ、「批評」、「批評家」という認識、批評家としての姿勢、演奏の評価基準等を分析した。『読売新聞』を対象にしたのは文芸批評、演劇批評、美術批評の連載評論の伝統をもっていたからであり、とくに1898年に注目したのは、同声会や音楽学校の演奏会、慈善演奏会のほか、1月から明治音楽会の演奏会が定期的に開催され、日本音楽会の活動も再開して、西洋音楽を含む演奏会の数が格段と増えた年だったからである。その結果、年頭に「明治三十年の音楽界」を書いた会外生から、「演奏批評」を書いた神樹生、霞里生、楽石生(伊澤修二)、四谷のちか、なにがし(泉鏡花)、藤村(島崎春樹)、そして楽評を批評した聰耳庵まで、「音楽批評」が自覚的に形成されたことを確認することができた。すなわち、会外生は洋楽の知識と聴取経験による音楽観にもとづいて音楽会を「論評」し、神樹生は身体化した西洋音楽の音感覚から「音楽会批評」「演奏批評」のスタイルを確立し、自ら「批評家」を名乗って「素人評」と区別した。神樹生の共同執筆者である霞里生や、神樹生の執筆機会を継承した伊澤修二は、その批評スタイルを踏襲している。「素人」を自称した泉鏡花や音楽学校選科生の島崎藤村、四谷のちかもまた、自らの知識と経験を生かしつつ、神樹生の批評スタイルを意識した。聰耳庵または坂部行三郎と伊澤修二との論争は、東京音楽学校とその関係者の評価をめぐる内容ではあったが、そこで展開されたのは文字通りの「音楽批評家」批評であった。
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