ドイツ帝国下のアルザスの中世期
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概要
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本稿はフランスのアルザスについて、その中世期からルネサンスの入り口までの歴史を叙述し、アルザスがドイツとフランスの国境にあって、ゲルマン文化とラテン語文化の二つの文化が交差・交流した地方であることを振り返る。アルザスが歴史に登場したのはユリウス・カエサルの『ガリア戦記』によってである。アルザスに定住していたケルト人の部族連合の指導者アリオウイストウスの専横に苦しんだ部族がカエサルに庇護を求めたことによって、カエサルのローマ軍は、アリオウイストウス軍と現在のアルザスのセルネ近くのヴイテルサイムで交戦、苦戦しながらも勝利した。こうしてアルザスはローマの属州とされ、約450年間パックス・ロマ-ナを享受したが、つづくローマ帝国の瓦解(405年)とゲルマン民族大移動(4世紀〜6世紀末)によってアルザスは荒廃してしまう。五世紀、ゲルマンの-部族のフランク人のクロヴイスによってフランク王国が創建され、アルザスはその支配下に置かれる。アルザスはついで「アルザス公国」の創建が認められた。この時代に「アルザス」という語が歴史的文献に登場する。アルザスはキリスト教化され、修道院文化が開花する。 740年、「アルザス公国」は長子相続者がなく廃絶され、以後フランク王国の歴史とともに歩む。そしてフランク王国の二度の条約による分割・再編によって、 870年、アルザスは東フランク王国に帰属することになり、さらにまた東フランク王国からドイツ・イタリアにまたがる神聖ローマ帝国が成立し、中世期アルザスにおいて、その思想的な成果はヨハネス・タウラー(フランス語表記ではジャン・トレール)のライン神秘主義であり、その建築的成果はストラスブール大聖堂である。アルザスは中世期のあいだ神聖ローマ帝国の一部をにないつつ発展した。
- 2009-03-12
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