音楽教育哲学から鑑賞教育への示唆(2)
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概要
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1980年代にアメリカで活発に行われた音楽教育哲学論争は、「行動知」か「本質知」か、という論争であった。この論争は日本の音楽科教育に多くの示唆を与えてくれるものであるが、筆者は「音楽教育哲学から鑑賞教育への示唆」(「人間文化研究 9号」2008年6月)にて、本質知に偏った鑑賞領域に行動知の導入をすることにより学習者の選択を可能にする必要があることを指摘した。日本の音楽科教育には1999年より民族音楽と日本音楽が内容に含まれるようになった。これまでクラシック音楽中心に行われてきた音楽科教育では音楽の構造理解が重要視され、鑑賞教育=構造理解であるかのごとく進められてきたが、独自の音律や構造を持つ民族音楽や日本音楽の学習を同じ概念で進めることは難しい。また従来のクラシック音楽においてもいくつかの問題を抱えてきた。つまり本質知中心の教育概念には限界があるということであるが、本質知と行動知の両者の提示が果たして鑑賞教育にとって十分なのか否かについては検討しなければならない。そもそも音楽とは一体何なのか、音楽の構造理解はなぜ必要なのか。このような疑問はとかく置き去りにされやすいが、本稿では音楽を「美」が集約された要素・構成と音楽を取り巻く全ての背景の二層構造と捉え、二層構造と本質知、行動知の関係から検討した結果、順次性を持って両者を提示することが最も適しているという結論に到達した。
- 名古屋市立大学の論文
- 2008-12-23