ゆがめられたダンテ像 : ルネサンス期の「国語論争」の場合
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概要
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「国語論争」(questione della lingua)とは幾世紀にもわたるイタリア語のモデル(共通語)についての大論争である.文学作品の創作にあたって,フィレンツェを代表とするトスカ-ナ地方の方言なのか,それとも多くの方言の長所を採り入れた折衷的なイタリア語なのかという問題である.それには中世以来多国家,多都市に分裂していたイタリアの歴史自体が深くかかわってくる.中世のいわゆる育都市国家を経てルネサンス時代に入ると,イタリアにはいくつかの強力な国家の支配が確立し,政治的にも文化的にも互いに拮抗し合い,覇権を争うことになる.当然この不統一な政治状況は「俗語の混乱」を招き,当の国語論争にも反映した.フランスのように中央集権国家の確立によって政治的統一が達成されていた国とは違い,イタリアはそうした統一が政治的要因によって阻まれていたとはいえ,イタリア人には同じ文化を共有しているという意識はあった.だからこそ共通語としてのイタリア語を求めたのである.ルネサンス期には各々宮廷を持つ君主,僭主,教皇たちの人文主義的文化政策によって知識人のあいだの交流が促進され,かれらのあいだには,時として政治的統一への願望とあいまって,古代におけるラテン語のような「共通語」への回帰に対する欲求がとみに高まってきたというのも事実であった.この論争のさなかにトリッシノによって発見されたダンテの『俗語詩論』の写本が,「折衷派」に利用されることになる.しかし『俗語詩論』でダンテの追い求めた「共通語」は,実は詩のジャンルのなかでもっとも高級なカンツォ-ネに適した「高貴な俗語」にはかならなかった.そうした理想的言語を駆使できるのは,プロヴァンスの詩人たちにも匹敵する国際級の大詩人であり,シチリア派やボロ-ニャの少数の詩人とダンテ自身のみであることを巧妙に暗示しようというのが『俗語詩論』の「隠れた」意図であったとすれば,この作品はいわば文学的「自己解釈」であったと考えられる.こうした隠れた意図はもとより,次元の高いダンテの構想を理解できなかったルネサンスの作家たちは,『神曲』をフィレンツェ方言で書きながら,『俗語詩論』で,ある種のフィレンツェの語嚢を拒絶したダンテが矛盾を犯していると考えた.その代表者は共通語をフィレンツェ方言にするべきであると主張するマキャヴェッリであった.中世の修辞学に則りダンテは,詩の文体に厳密な等級を設け,カンツォ-ネは最高級の「悲劇的」文体でかかれ,一方『神曲』は,中級の「喜劇的」文体でかかれるべきであるとした.したがって「高貴な俗語」の範疇に入らない低俗な語彙が『神曲』で用いられるのは当然のことなのである.その後のイタリア語はどのような歩みをたどったのであろうか.現在イタリア語の標準語は,フィレンツェ方言に落ち着いた.実はイタリア語の標準語の形成には独特な経緯があったのである.ダンテ,ぺトラルカ,ポッカッチォの三大作家がいずれもフィレンツェ方言で創作したため,イタリア全土のひとびとはまずものを書くにあたって,この三大作家をモデルにした.その結果フィレンツェ方言が共通語となり,やがて話しことばにもフィレンツェ方言が浸透していった.ダンテから現代にいたる700年の間にイタリア語がさほど変わっていないということは,三大作家の時代に現代イタリア語の基礎が築かれたということを意味する.ダンテはよく「イタリア語の父」と呼ばれるが,これは単なる比境というより,まさに文字通り,イタリア語の生みの親といえるであろう.国語論争をしているあいだに言語は自然の流れに乗っていたのである.
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