言語と自由意志 : ダンテの言語思想についての一考察
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概要
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周知のごとくダンテは、『饗宴』の第二巻十三章で宇宙の構成と諸学の体系との間に見られる完全な対応関係を提示している。たとえば文法を月天に、弁証法を水星天に、幾何学を太陽天にといったように学問の順位を天界の階位になぞらえている。それは諸学の性質と特性が天の星々のもつ性質と特性に似ているからだという。私見によれば諸学の場合のように明確な図式を示してはいないとしても、ダンテは言語の体系においても類似の関係が存在することを暗に言おうとした節がある。いずれにせよダンテの言語思想を完全に理解するためには、その哲学思想を十分に把握しておくことが絶対に必要である。ダンテによれば、宇宙構造のなかで人間の占める位置は、人間の言語のそれと完全に呼応している。人間は天国の住人と動物の中間の位置を占める。天国の住人は、「物体から自由な実体」(susutanze separate da materia)なので、たがいに完全に意志を通じ合えるのである。人間に劣る動物はどうかといえば、「自然の本能によってのみ導かれるのだから、言語能力をそなえる必要はなかった。事実同じ種族のすべての動物には、同一の行動と情念がそなわっており、それゆえおのれの行動と情念によって他のそれを知ることができるからである」。そこであらゆる被造物のなかで考え伝え合うために、人間のみに理性的であると同時に感覚的ななんらかのサインが必要であるということになる。なぜなら「人間の精神は、天界の住人の透明な精神とは異なり、死すべき肉体の厚みと不透明さにおおわれているからである」。『俗語詩論』においてダンテは、『創世記』のテキストにかれ独自の解釈をほどこし、人間の高慢さのゆえにどのようにしてバベルの塔が築かれたかを詳細に語っている。そのあとでダンテは次のような注釈を加える「われわれのすべての言語(最初の人間の創造と同時に神の創りたもうたものを除いて)は、先行の言語の忘却にほかならぬこの混乱ののちにわれわれが好き勝手に(anostro beneplacito)つくりなおしたものである」。したがってこの言語の「原罪」の結果として「思いが伝わらないという性格(incomunicabilita)」が、その起源から言語の性質には内在しているのであり、人間の言葉による表現には生来限界があることになる。言語の偉大な創り手であるにもかかわらずダンテは、人の考えは言葉によって完全に伝わるものではないという事実をつねに十分意識していたものと思われる。それでは人間がこの言語的原罪を容易にあがなうことができないとすれば、この越えることのできない障害をどうやって乗り越えたらよいのか。それに応えてダンテは、生涯をかけてあまりにも粗野で不純な素材、すなわち方言色のきわめて濃い言語から「離脱する」ことに努めた(ダンテは『俗語詩論』でたびたび「離脱する」という意味で"divertere"という用語を用いている)。この「離脱」という行為を通してダンテは、絶え間ない「選別力(electio)」すなわち「自由意志(libero arbitrio)」を最大限に機能させることによって、その素材の性質を向上させ、ついにはそれを完全なまでに純化することに成功したといえよう。ダンテが『俗語詩論』のなかで高貴な俗語の地位をいかにして定めるかを述べたくだりと『饗宴』第三巻の七章で魂の序列について解説するくだりのあいだにほとんど完全な呼応関係が見いだされることは、非常に興味深い。経験的な知識に基づきイタリアの十四の方言を検討し、高貴な俗語の地位を占めるにふさわしい俗語をひとつとして見いだせなかったので、ダンテは今度は演繹的推論に基づいて高貴な俗語を求めようと努め、次のように述べている。「パンテーラ=高貴な俗語は、どの都市にも芳香を放ちながら、そのいずれにも棲息しているわけではない。しかしながらある都市では、他の都市よりひときわ香りが高いということはあり得るのである。それは実体のなかで最も純粋な神の香りが野獣よりも人間において、植物よりも野獣において、鉱物よりも植物において...ひときわ高いのと同様である。用語法の観点からも『俗語詩論』におけるsimplicissima substantiarumは、『饗宴』のsimplicissimo principioにまさに呼応している。上記のことは何を意味するかというと文学の創作活動の観点からすると、言語と文体の分野にも継続的序列が存在し、ダンテはある時は悲劇的文体をある時は低俗な文体を採用するといった具合に、その序列のなかで自由に上昇し、また下降することができたのである。なかでも『神曲』の世界でダンテは、描くべき多様な現実に見合った文体を自由に選択する神業に到達していた。魂が善に向かおうとするこうした傾向は、それ自体賞賛にも非難にも値しない。他のすべでの欲求が、この第一の本能的な欲求に順応するために、人間は生まれつき選別の能力すなわち理性をそなえている。これが同意の扉の守り手h</abst>
- 1997-10-20
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