朝鮮中宗代における対明遥拝儀礼 : 一六世紀前半の朝鮮と明・日本
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概要
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本稿は一六世紀前半の朝鮮中宗代に時期を限定し、毎年正朝・冬至・聖節・千秋節に王宮の正殿にて明帝を遥拝する望闕礼、ならびに異域からの使者が集う朝賀礼と会礼宴の実施状況について、官撰史料を中心に整理・分析したものである。クーデタにより即位した中宗は功臣会盟祭を優先するなど、かならずしも忠実に宮中儀礼を実施していない。三浦の乱の鎮圧後、靖国功臣と非功臣勢力という政治上の対立構図が瓦解すると、中宗一一年には倭人と野人を朝賀礼のみならず朔望の朝会にも随班させることが決定する。儒者官僚による成宗代への復古主義であり、倭人と野人を四夷からの「朝貢分子」とみなす華夷意識の表出でもあった。凶年と天災により控えられてきた貞顕王后のための豊呈の儀も翌年正朝に復活し、己卯士禍が発生する中宗一四年までは望闕礼→朝賀礼→豊呈とつづく正朝・冬至の宮中儀礼がほぼ定例どおり実施された。一方、中宗二三年冬至には王世子の望闕礼随班が実現し、ひきっづき王世子は百官を率いて朝賀礼を主宰した。朝賀礼の場には「日本国王使」 一鶚東堂も随班しており、王世子は「朝貢分子」の前で王位継承権者としての役割をつつがなく果たす。僞使は華夷意識から抜けだせない朝鮮側と、その事情を熟知して貿易の権益を求める対馬側の、相互のバランスのうえに成立していた。総じて、中宗が名節の対明遥拝儀礼を忠実に実施していたとはいいがたい。中宗二〇年の聖節を前に司憲府は近年の権停礼を非難し、中宗三四年の千秋節には中宗がこれまで聖節の望闕礼を権停礼により実施していたことを告白している。朝賀礼は権停礼による実施がなかば慣例化し、天災にともなう財政事情により会礼宴も激減した。むしろ前代の燕山君は望闕礼と朝賀礼に積極的であり、朝鮮初期の礼と法を確立した父王成宗はもっとも忠実に名節の宮中儀礼を実施したことがあらためて浮きぼりとなった。
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