高麗末期の儀礼と国際環境 : 対明遥拝儀礼の創出
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概要
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本稿ではまず、『高麗史』礼志を手がかりに高麗における名節の賀礼を俯瞰する。ついで対象時期を一四世紀後半の高麗末期にしぼりこみ、朝鮮初期に実施された対明遥拝儀礼の原型を元・明交替期に求むべく追跡調査した。高麗の王都開京では一一世紀半ばまでには朝賀礼→賜宴とつづく正朝・冬至の国家儀礼が実施されていたが、宋・遼(契丹)に対する遥拝儀礼は確認できない。それゆえ、当時の東アジアにおける国際環境にあっては高麗と宋・遼が垂直の君臣関係にあったとはいいがたい。一三世紀後半になると、元帝の女婿となった忠烈王は正朝に「群臣を率いて遥かに正旦を賀う」儀礼を実施し、正月朔望と聖甲日(本命日)には元帝に対する仏教儀礼を寺院にて執り行った。しかし、忠烈王は正朝を元の大都で迎えることが多く、元干渉下の高麗社会にこれらの儀礼が定着することはなかった。遥拝儀礼の画期となるのが明の太祖洪武帝の即位、そして高麗国王の冊封体制への参入である。一三七二年冬至に恭愍王は明帝を遥拝する儀礼を実施し、王宮では万歳三唱ののち、百官は朝賀礼を実施して盛大に祝った。これこそ朝鮮王朝開創直後に開城で実施された対明遥拝儀礼の原型であり、洪武帝が「蕃国の礼」として制定した「聖節・正日丁冬至に蕃国が闕を望みて慶祝するの儀」の受容と実践である。中華帝国の礼制が高麗における外交儀礼のあり方まで規制したことを意味する。恭愍王の死後、しばらく高麗政府は北元と明との外交政策をめぐって揺れ動いたが、高麗最末期の恭譲王代には対明遥拝儀礼→朝賀礼→賜宴の順に国家儀礼が執り行われた。そしてまもなく王朝交替を迎える。
- 久留米大学の論文
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