九一八時期のメディア論調に見る多様の両義性 : 1932年国難会議をめぐる平津主要紙における政治議論
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概要
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本稿は1932年4月の国難会議の成立過程で展開された議論について,平津地域(現北京と天津)の新聞論調を中心に考察したものである。国難会議は当初国民政府成立以来初めて,国民党内外を問わず人材が集められ,「国難」対策について話し合われるという構想であった。しかし政権をめぐる駆け引きの中で徐々に変質し,最終的にその実効力は大きく削がれた。国家体制の確立途上にあったこの時期,新聞メディア上にはつかの間の自由な言論空間が形成されており,そこには辛辣な政府批判も含めた活発な政策論が見られた。各紙は基本的に憲政移行を是としていたが,「国難」対処については多様な立場が存在し,そのことが仇ともなり論調全体の影響力は弱められた。
- 2009-02-25
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