交代寄合三河衆中島家について : 吉田・田原両藩主との交流を中心として
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概要
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交代寄合三河衆中島家は小身の領主ではあったが、大名並みの待遇を受け、格式は高かった。このため近隣の大名と親密に交際していた。十七世紀の二、三十年代は吉田藩主との間に頻繁な往来があった。この時期の田原藩主との交際は不明であるが、同世紀後半以降十八世紀前半までは、中島家当主の田原城訪問や贈答・文通は活発で、この関係を前代に遡らせても、あながち間違いではなかろう。十八世紀後半に入ると、田原城訪問だけはなくなるかに見えるなかで、両家は姻戚関係となり、いっそう親密度を増し、人間味さえ感じさせる交際が重ねられた。しかし、この関係はわずか十五年で結末を迎え、その後は贈答の回数も減り、文通も、参勤案内、年始祝儀、寒暑見舞い、災厄見舞いに限られ、さらに一八一一年からは、財政難により、文通すら参勤案内だけに限定された。こうして中島家の交際は縮小の一途をたどり、最後に残った文通だけが、三河国の「大名」の一角を占める証であった。
- 桜花学園大学の論文
- 1999-03-31