人間の知は深化するか : クセノファネスとヘラクレイトスの断片を手掛かりにして
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概要
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人間は、あたかも一人の個人が成長の段階で行なうように、自らの知を量的にも質的にも変化させてきた。その成果は特に技術知に関する領域において顕著であるが、決してそれに留まるものではなく、人間自身を眺めるという内的省察においてもその痕跡を窺うことができる。本稿の目的は、古代ギリシア思想史の中に、人間知への眼差しが変化した具体的言説を求めることであり、またその時期を確定することにある。従来の思想史では、現代的批判に耐えうるだけの自己をギリシア人が獲得したのは、ソクラテスにおいてであるとされてきた。なるほど彼の思想には、問答法により既得の知を検証するという明確な方法論と、アポリアに陥ることを了解したうえで、それでも人間全体に知を探求する途が可能性として了承されている。しかし、彼に先行するいわゆる前ソクラテス期の思想家たちの断片を検証すると、なるほど言表の形式は異なるにしても、ソクラテスと同様の自己発見の過程を見いだすことができると思われる。人間知の発展形式が、その最初に知の対象を自分の外側に求めることは自然なことである。この意味では、知はまず量的な変化を蒙ることになる。しかし、量的知の集積に留まることに満足せず、獲得した個別知の関連を問うことを通してそれらの背後にある共通の根拠へと遡行する時期が訪れる。本稿に取り挙げたクセノファネスとヘラクレイトスは、近い時期を生きながらも対象的な思想を展開した。われわれは、前者の中に量的知の保証にもかかわらず相対論的地点に留まる危惧を、それに対して、後者には知の質的深化を保証する思想を見ることができる。彼らの複数の断片を手掛かりにすることによって、本稿の目的である知の深化に関する過程を検証するとともに、ソクラテス的自己の発見を、すなわち思弁的自己への覚醒を、ヘラクレイトスの思想の中に見ることができることを論証する
著者
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