19世紀〜20世紀初頭のロシアとポーランドの対立、地政学と文明
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概要
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アメリカの地政学者J・P・ルドンヌによれば、対立し合う二つの「民族国家の核(core area)」があるとき、そのあいだには不等質な「辺境地帯(frontier)」があり、それは「近接する区域(proximate)」、「中間区域(intermediate)」、「最も遠い区域(ultimate)」に区分できる。対立する民族国家の核の一方が併合政策を進める過程で、帝国型の国家機構としてロシア帝国が形成されていったのだ。1815年から1915年に至る当該地域の社会政治過程は、まさにこの枠組みに当てはめることができ、士族共和制ポーランドの分割や黒海北岸地帯の帝国への併合を経て往古のキエフ・ルーシの伝統は決定的にモスクワ中心に置き換えられたのである。これに対してポーランドの核は、分割により消滅した往時の政治空間ではなく、ウィーン会議で承認されたポーランド王国であった。これを民族国家の核として、マゾヴィア、大ポーランド、小ポーランド、ポドラシエの一部を、さらにウクライナや旧リトアニア大公国領に散在する群島を合わせた広範囲のポーランド文明圏を構成していた。多くのシュラフタ身分を抱えるマゾヴィアと首都ワルシャワの周辺地域が、とくに重要な役割を果たした。ワルシャワは第一次世界大戦前夜には人口100万人を擁する都市に成長し、ロシア帝国内ではペテルブルグ、モスクワに次ぐ第三の都市となっていた。ハプスブルク帝国領に入った古都クラクフは、ワルシャワに較べてポーランドの核としての比重はそれほど大きくなかった。ロシア領ポーランド、すなわちポーランド王国こそがポーランド人が集任する最大の地域であり、往時の士族共和制領内で民族解放闘争や経済発展の指導的役割を果たしたのである。ロシア帝国内のほかの民族核と較べても、これ以上の強力な核は存在しなかった。ポーランド化の著しいベラルーシとリトアニアの国境線沿い、アウグストゥフ県の一部、ヘウム地方は、ミツキェヴィチやピウスツキの「小さな故郷」としてポーランドとの結びつきがひと際強く感じられる「最も近い区域」であった。こうした区域は往時の士族共和制の各地に散在し、ポーランド蜂起の分布図とほぼ一致していたのである。「辺境地帯」であるウクライナについてみると、ロシア政府は非ポーランド化を進める際に、右岸ウクライナでは農民身分を支援し、ハプスブルグ帝国統治下の東部ガリツィアでは親ロシア派に挺入れし、左岸ウクライナでは自立志向を強めるヘトマン(コザックの自治)政府に対してはむしろ地域全体の支持を確保しようと努めた。ウクライナ愛国主義の台頭を「ポーランドの陰謀」とみなしたためである。ポーランドの核を内側から破壊し、「最も近い区域」を切離し、その区域を潰してロシアの核を拡大するために、「辺境地帯」の再配置と行政的な核への接合、すなわち、汎スラヴ主義者I.S.アクサーコフが高唱したように、1772年国境を跡形もなく廃止することが企図されたのである。そのためにポーランド人の西部諸県のみならず近接諸県への移住は禁止され、モスクワやペテルブルグにまで及ぶ、いわゆる衛生区域が設定された。流刑囚の西部諸県への帰還を禁止する代わりに、往時の士族共和制の領域範囲外への居住が奨励された。ポーランド人は結果として衛生区域に移り住むことが可能となり、帝政ロシアの版図の隅々まで居住空間を拡大していく皮肉な結果をもたらしたのである。ポーランド移民は、1880年代にモスクワとウーチ間の経済競争の激化にともなって一層増大した。1880〜90年代に入ると、ロシア社会では「中央(核)の衰退」という意識が芽生え、ここから民族排外主義が高揚し、敵対感情がポーランド人を含む非ロシア人すべてに向けられたが、それにもかかわらず、ポーランド人の拡散は帝国の近代化・工業化にかかわる分野で顕著となり、それゆえ非ポーランド化政策はほとんど効果を上げなかった。それにも増して、ロシアとポーランドという二つの核の対抗は、その二つの核に挟まれた辺境地帯でウクライナ、ベラルーシ、リトアニアの民族覚醒を促し、その発展を助長しさえしたのである。19世紀を通じてロシアとポーランドの対立は、文明の相違であると宣伝された。20世紀に入ると、「文明」と「未開」の対比に置き換えられ、ウクライナ人やベラルーシ人も巻き込む永い論争として展開され、この論争から産まれたのがロシアをヨーロッパ文明の外側に置く「中・東欧概念」であった。層の厚い、強力なポーランドの知識人層が、文明の名を借りてロシアをアジアの野蛮とみなす主張を幅広く展開したのである。
- 2004-03-22