日本で行うDaF (外国語としてのドイツ語) のような外国語授業で文化間コミュニケーションは両立させられるか : 多文化主義への批判をなすディアスポラの視角から
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概要
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外国語学習との関連で、intercultural communication が、初発におけるように international communication との間の区分において根源的に眺められるならば、それは、ナショナリズムを脱し、諸文化主義を脱し、さらには既存諸言語中心主義を脱さなくてはならない。その具体的な極北は、言語的窮境にあって新言語を生んでしまうクレオールの有り様といえる。だが、既存の一言語ドイツ語を外国語として教えるドイツ語授業という教室の場は、言語的窮境もなく、それをもたらすような宗主国-植民地関係にも無い。他方で言語授業という性格上、新言語創出ではなく既存言語ドイツ語受容中心が期待されていることも異なる。そこに盛り込まれる異文化コミュニケーションの姿勢とは、従って、もっと身近なものに、日独間のものに、そして理念的なモデル的なそれに限定される。上記のような、それ以外の部分の歴史的な異文化コミュニケーションは、授業の場ではなく講義の場で、初めて可能だ。たとえその運用は将来に備えた虚構のものであろうとも外国語授業が求める即座の運用を、講義は必要としないために、矛盾関係にある事項をそのまま並立提示/受容できるからである。実際の生におけるように行為としてひとつに定められることもなく、従って既存諸言語中心主義を批判しながら批判されるものを実践することが期待されることもないのだ。矛盾対立する事項を、姿勢保留のままに並行して語ることはできても、生きることはできない。
- 2004-03-31
著者
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