寓意の演劇的展開 : カルデロンの聖餐劇 (Autos sacramentales) の場合
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概要
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寓意 (allegory) は、おそらくヨーロッパ文芸の起源において既に存在した。しかしそれは、世界の文芸の歴史のなかで、けして一貫してまた一元的にありえたわけではなく、つねに孤立的、断続的、瞬発的であり、とくに時代の変り目において、さらにはその時代の終末において、奇怪なまた不可思議な光を放っている。寓意は、隠喩の展開ないし延長といはれる。ここでは隠喩を、その本来の意味の比喩 (tropes) の全体として考え、この次元と、物語 (mythos) の問題の次元を、行列の形でマトリックス化して、その枠組の各部で問題を探ろうというものである。また寓意の本体は隠喩であるということに注目すれば、これは演劇として最小限度の統辞的単位で成立することが可能である。これは視覚的造形的表現の統辞化と物語性の範列化の問題であり、造形芸術と文芸の交点を探り、その双方への展開の可能性を求める作業である。カルデロン (Don Pedoro Caldaron de la Barca 1600-1681) は、十七世紀において、聖餐劇の伝統の完成者としての地位にたつ。これは中世からルネッサンスを通じての宗教劇の総決算でありその終末であり、その美学的理論化の完成であった。それはカトリックのエキュメニズムのイデオロギー化とその当時もはや全く不可能となったスペインの世界支配の幻影の演出理論である。彼はこれを理論として、またあくまで具体的な作品として実現した。ここでは、その基礎理論とその具体例として『神なるオルフェウスEl divino Orfeo』について、寓意の仕組みをみることにしたい。
- 1987-03-20
著者
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