吉田松陰の理想的生死観とその死について
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
罪状申渡しの際の吉田松陰の態度については、神色自若としていたとする「定説」に対して、騒動しく「実に無念の顔色」を見せたとする記述が残っている。さて、松陰は十六歳の頃より、誠を尽くして「義」(=「忠義」)を実践し、その結果享受する「甘死(かんし)」を理想とする生死観を持っていた。一方、一見「義」に見えて、内実「義」の実践を伴わない「苦死(くし)」は忌むべきものと考えていた。その意味で、安政元年(一八五四)の下田事件失敗後、徒死(とし)と放擲(ほうてき)の不安に苦悩していることは、彼がまだ「義」を実践していないという意識を持っていた証左となる。これより、同六年、幕府の東送命令を聞いた際、「それは出来(か)した」と喜び、「幕府ノ議論ヲ一変シ魯仲連ノ功ヲ立」てんと述べた真意が理解できる。取り調べは松陰にとって、待望の「義」の実践の場だったのであろう。しかし、待っていたものは意見を聞くだけで、理解しようとしない取り調べと死の宣告であった。とすれば、私には「定説」ではなく、「実に無念の顔色」を見せたという記述こそ、その実相を伝えているとしか思えないのである。松陰が遺書を殊更に「留魂録(りゅうこんろく)」とした所以(ゆえん)はここにある。
- 2001-01-31