吉田松陰の死に関する定説について
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概要
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吉田松陰は、安政6年(1859)10月27日朝、死罪の申し渡しを受け、同日、刑死する。現在、判決を聞いた際の松陰の態度については、騒動しく、「実に無念の顔色」を見せたとする説と、神色自若としていたとする、相反する記述が残っている。しかし、これまで定説とされているのは後者の説である。小論では両説成立の経緯などを探り、定説誕生の背景及びその問題点を論考した。そして、1、定説は当時長州藩江戸留守居役であった小幡高政が直接見聞したことを娘三香に語り、それを又聞きした田中真治が昭和初期に記録した可能性が高いこと。2、田中は世古格太郎の「唱義聞見録」をかなり意識して記述していること。3、また、世古は安政の大獄に連座したという点で松陰の同志であり、松陰を悪し様にいう動機が見あたらないこと。4、『全集』の編集委員であった玖村敏雄等は両説を精緻に検討した形跡がないことなどを解明した。
- 1999-06-20