ハイネとベルネ : ハイネの「ルートヴィヒ・ベルネ覚書」をめぐって(1)
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概要
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ベルネを中心とする左派の批判を受けていたハイネは,ベルネの死の三年後,いわば自己弁明のため,「ルートヴィヒ・ベルネ覚書」を書いた。それは,1830年パリ7月革命前後の同時代を描きながら,ベルネと対立する自己の立場を明らかにする試みであった。今日「覚書」は,ベルネより優れたハイネの革命的展望を表すものとして評価されているが,これはハイネの言い分を額面通りに受け入れて,ベルネが蔑ろにされていると思われる。ベルネが果たした役割を評価してこそ,「覚書」全体の公正な理解が得られるだろう。そのためには,「覚書」以外に表れた二人の対立的をくわしく検証する必要があろう。
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