イザベラ・バードに会った3人のクリスチャン学生と弘前教会・東奥義塾の活動
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概要
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1878年、蝦夷地への途上、青森県黒石に逗留していた英国人旅行家イザベラ・バードのもとへ3人のクリスチャンの学生が訪ねてきた。彼らは、弘前にある東奥義塾の学生であり、同時に弘前美以教 メソジスト 会のメンバーでもあった。彼女の日本旅行を記した1880年(初版)のUnbeaten Tracksin Japanには彼ら3人の名前はその姓が示されていたが、1885年の普及版ではその部分は削除された。普及版を翻訳した高梨健吉による『日本奥地紀行』では、彼らが誰かということはわからなかった。本稿ではその3人の同定を試みた。1874年に東奥義塾の外国人教師でメソジスト宣教師であるイングと横浜公会所属の塾頭本多庸一の指導のもとに受洗した学生たちは超宗派の弘前公会を設立した。メンバーはそのほとんどが東奥義塾の学生であり、同時に教師も兼ねていた。バードに会いに来た3人を含め、クリスチャンとなった学生たちはステューデント・ヘルパーとして、弘前近郊や黒石まで伝道のために歩いていた。彼らの活動が原動力となり、東奥義塾と弘前教会が相互作用を受けながら組織を形成していく過程を考察した。1876年になって超宗派の理想を掲げる横浜公会のもとにあった弘前公会に、宗派所属問題が持ち上がり、複数の宗派からの活発な応援があった。同年12月には弘前公会は所属を決定して、弘前美以教 メソジスト 会として活動をはじめた。当時の宗派所属問題はひとり弘前教会の問題というより、日本で超宗派で宣教をしてきたプロテスタント教会の転機を意味していた。このような状況を鑑みて、バードが黒石で3人の学生たちから彼らの師に会いに弘前に来るようにと勧められたが、弘前に足をのばすことはなかったと言う事実は、彼女の旅行における宣教組織との関わり方と伝道に対する彼女自身の見方を解明する上で考察に値するものと思われる。青森県の教育、政治、文化と切り結んだクリスチャン学生たちは、やがて、東京での青山学院の創立や日本におけるキリスト教の発展に関わっていったが、その中にはバードに会った3人もいた。旅立つ前の彼らの姿を検証した。
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