イザベラ・バードの描いた碇ヶ関と子どもと遊び
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概要
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明治11年(1878)に英国の女性旅行家イザベラ・バードは北日本を「蝦夷」へ向かって旅をしていた。蝦夷への汽船の出る青森港を目前にして、彼女は県境の碇ヶ関村で大雨に足止めされ4日間を過ごした。彼女はそこで眼にした大雨の矢立峠や洪水に見舞われた村人の様子を書いている。水が引くのを待つ間に彼女は、休暇中の子どもたちが甲虫、水車、凧、カルタをして遊ぶ姿を描いた。同時に彼らは休暇後の試験に向けてまじめに勉強する子ども達でもあった。碇ヶ関での現地調査と文献を基に、彼女の記述を辿り、青森県の学校事情を踏まえて明治の子どもを取り巻く環境と津軽の地域子ども文化の復原を試みた。 また、翻訳された『日本奥地紀行』は初版の2巻本に基づくものではなく、碇ヶ関ではカルタ遊びの部分が未訳となっているので翻訳紹介をした。これらはいずれも、研究者により1巻本の省略の要因のひとつとされてきたブラキストンの指摘にかかわる部分を含んでいる。ブラキストンが『蝦夷地の中の日本』において、バードの記述の問題点として指摘した中に、グリフィスの名前がある。彼の『明治日本体験記』の中には、バードの記述との類似が見られる。そこでグリフィスとバードの記述の比較をした。 子どもの遊びを検証する一方で、彼女の滞在した碇ヶ関の宿屋・店屋や登場する人々の特定をした。その葛原旅館は現存しないもののバードが来たことを伝聞された曾孫から話を聞くことが出来た。また戸長と宿の亭主が兄弟であったことや彼女と話を交わしたと思われる人々が揺籃期の明治の教育制度の中で重要な位置を占めていたことなど彼女の記述の裏づけとなる背景がわかった。また橋や災害の記述の正確さを示す史料も見つけることができた。 しかし子どもの遊びに関しては、特に津軽では史料の多い凧の記述などからバードは見たままを描いたのではなく、碇ヶ関という場で彼女がとても好きだという「バードの日本の子ども観」を展開したという結論に達せざるを得なかった。
著者
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高畑 美代子
弘前大学大学院地域社会研究科(後期博士課程)地域文化研究講座
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齋藤 捷一
あおもりくらしの総合研究所
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高畑 美代子
弘前大学大学院地域社会研究科地域文化研究講座
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齋藤 捷一
弘前大学大学院地域社会研究科(後期博士課程)地域文化研究講座
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