名の形成と村 : 弓削島庄の過大名を中心として
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概要
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弓削島庄においても12世紀初期以前においては他の公郷地域にみられるものと同じく郷戸-房戸の関係の上に郷戸制が形成されていた。郷戸と房戸との数的関係はやはり1郷戸-3房戸であったことが想定できる。在地有力農民は買得その他の方法で弱少郷戸の耕地を集積する一方,ある時期に比較的短期間に弱少郷戸に含まれる房戸吸収が行われていった。その結果は末久名のみは全島にわたる弱少郷戸のもつ耕地の一部とそれに附随する房戸を把握した過大名にのし上っていった。このような形は弓削島が公郷から庄園化すると末久名の過大名の体制はそのままの形で把握されて名田方と呼称され,弱少のその他の郷戸の系譜をひく旧名は公田方と呼称された。公田方は規模の点においても適度であったことから永く庄園領主からも把握の単位となって残されたが末久名の方は余りに大現模すぎる点から房戸の系譜をひく公田方の作人を把握の直接的単位とした。しかしながら,古代において行われた房戸吸収の歴史的事実はその後永く存続し,中世塩の生産を通じて商品流通の渦中に投ぜられたにかかわらず過大名末久名の存在は中小名(旧名)による近世的村への自治的村落形成を阻止した。
- 地理科学学会の論文
- 1964-09-01
著者
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