タッソと空虚のヴィジョン
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
序章 トルクァート・タッソの代表作『エルサレム解放』^<(1)>の第十六歌には、魔女アルミーダの宮殿が忽然と消え去る場面を描いた、次のような印象的な記述がある。夜の暗がりよりなお深い闇、光線の混じり込む余地も無い深い闇が、城館の全てを包み込む。その濃い靄の奥にはただ稲光のきらめくのが見えるばかり。ようやくその闇がはれ、太陽は、淡い光線を再び送りだす。しかし、大気は以前のように穏やかではない。もはや宮殿は跡方もなく、その痕跡すらうかがわれず、「かつてここに宮殿があった」と言うことさえできない。あたかも、雲が大空に大伽藍の像を作り出すものの、風が吹き散らし、日差しが溶かしてしまうため、瞬く間に消え去ってしまうように、またあたかも、病人の見ていた夢が雲散霧消すように、そのようにその城館は消え果てて、後はただ岩山と、自然がそこに作った荒涼たる景色が残るばかり。(Gerusalemme Liberata, XVI, 69-70)この叙述の核心をなしているのは、目の前に存在していたはずのものがあっというまに消え去ってしまう幻滅感、雲や夢に象徴されるはかなさや虚しさといったテーマであろう。「孤独、空虚、不条理といった感覚は、タッソが熟知し考え抜いていた心理状態、詩的本質を付与するような効果をもって歌い上げた心理状態の一つである」とF.キアッペッリがこの箇所に付した注釈で述べているように^<(2)>、現実の虚しさ、あるいは虚しさを喚起するような幻影のモチーフは、タッソの作品の重要な特質となっており、同様のテーマは『エルサレム解放』のみならずタッソの諸作品にひろく認められる。タッソの作品におけるこのような幻影の主題の広がりと深みを明らかにするために、ここでは本論に先だって、「対話篇」(Dialoghi)のなかの一篇『使者』(Il Messaggiero)^<(3)>から三つの記述を引用してみたい。「対話篇」のなかでもっとも人工に膾炙しているこの『使者』において、作者タッソと等身大の人物である「私」は明け方、自分の枕元に現れた精霊と対話を始める。そのやりとりの冒頭には、自分がいま目にしているものが夢ではないのか、あるいは幻ではないのかという問いが執拗に繰り返されている。「……恐らく、私がいま見ているものは夢なのでしょう。あなたは私の空想の産物に他ならず、かつてあなたと交わした議論もすべて夢だったのでしょう。何故なら、肉体が眠っている間も魂は活動するのを常としてるが、それは外部の対象には働きかけることができないため、記憶のうちに保存してある、感覚がとらえた事物の像にほこ先を向け、そこから様々な形象をつくりあげ、その結果、外部に存在するもので、私たちの心のうちに真実として現れえないものはないということになるからです。魂はしばしば、本来なら対になりえないものも対にします。だから私は自分が夢を見ているのではないか、夢を見ながら考えているのではないか、いま自分の見ているものは実際に見たり聞いたりしているのではなく、幻影を見聞きしているのではないかと疑っているのです」(Il Messaggiero, pp.252-3)「あなたは、私の見ているものが夢ではないことを十分に証明して見せた。しかし、あなたは私の疑念をいちいち解決したわけではないので、私の見ているこの像が、眠っている人間の夢ではなく、目覚めたまま空想の虜となっている人間の幻影ではないかという可能性に、私は思いを巡らしているのです。想像力の強さは並はずれています。魂が五感を働かせるのを止め、自分自身のうちに引きこもっている睡眠時には、想像力は確かにより強くなるように思われます。しかし、覚醒時にも想像力がきわめて迅速な効果でもって五感を強制し、五感が自らの対象を識別できないように感覚を欺くということがしばしば起こります」(Ibid, p.264)「オレステスやペンテウスのように錯乱の病によるのであれ、あるいはバッカスや愛神に心を奪われた者たちのごとく神聖な激情によるのであれ、夢がなすのに劣らず虚偽を真実として提示することができるような精神の遊離がしばしば生じることは否定しようのない事実です。むしろそれは夢以上に虚偽を真実として提示することが出来るように思われます。何故なら、夢においては諸感覚の動きが束縛されているに過ぎませんが、劇場にあっては精神の働きが疎外されているからです。それ故、私の狂気について世間で言われていることが本当だとすれば、私の見ているものもペンテウスやオレステスの見ていたものと同様ではないかと、私は強く疑っているのです」(Ibid, pp.265-6)この執拗な懐疑には、夢と現実をめぐる伝統的な思考形式の反復だけではなく、十六世紀の後半から十七世紀にかけてのバロック演劇のモチーフや、デカルトの方法的懐疑との類似性、つまり時代との連関もまたうかがえる。さらに、「私の狂気について……」というくだりからはっ
- 1998-10-20
著者
関連論文
- 『エルサレム解放』の印刷本の諸問題
- パゾリーニの『不良少年たち』 : 生と死と聖性について
- タッソと空虚のヴィジョン
- 多様性から単一性へ : タッソ詩論とその宗教的背景
- タッソの詩論におけるアンジャンブマンの意義と形態