"Donna Gentile"をめぐるVita NovaとConvivioの矛盾について : 「自己引用」と「記号」の再解釈という視点から
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概要
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0.問題の所在 Vita Nova(以下では「小冊子」という呼び方をしばしば用いる)の35章から39章に登場する「高貴な婦人Donna Gentile」に、ベアトリーチェの死後、ダンテは一時的に愛情に似た感情をいだくことになるが、この「高貴な婦人」は後にConvivioのカンツォーネに登場する女性と同一人物であるとされ、さらにその正体は「哲学」であるとされるにいたる。「高貴な婦人」に対する愛の性格づけとその結末に注目すると、「小冊子」とConvivioの記述は真っ向から対立している。Vita Novaの中では、それは「理性の敵」、「邪悪な欲望」、「虚しい誘惑」、「懊悩」など否定的に評価され、ベアトリーチェの幻視によってうち破られてしまうのに対して、Convivioでは「高貴な婦人」は、「神の娘であり、あらゆるものの女王」である「哲学」と同一化された結果、"novilissima"、"bellissima"、"onestissima"などの絶対最上級で修飾されている。Vita Novaでは絶対最上級はベアトリーチェにしか用いられないことを思い合わせてみるなら、これは大きな変化と言わざるを得ない。そして、「高貴な婦人」は「より大切な友maggiore amico」になぞらえられ、「それほど大切ではないminore」友であるベアトリーチェに対してはその愛から離れざるを得ないことに嘆きは示されてはいるものの、Convivioでは「哲学」に対する愛がよりよいものとして勝利を収めることになる。この時、「小冊子」を「少しも損なわないnon derogare in parte alcuna」ようにし、さらにはConvivioをもってVita Novaに「奉仕giovare」しようというダンテの意図は、如何なる意味において達成され得るのであろうか。愛を生じさせる金星天の感化力の勢力圏とは地上であり、地上から去ったものにはその感化力は及ばない。そのため、ベアトリーチェに対して抱かれていた愛情は、同じ金星天の感化力にしたがう限り、この世にあるものに対象を移さざるを得ない。かくして、かつての愛は「解体disfare」し「朽ちcorrompersi」、新たな愛が生まれる。これがConvivioのこの段階でのダンテの愛の理論であって、その理論にしたがう限り、結果としてベアトリーチェが敗れて「心の砦rocca de la mente」を「高貴な婦人」に明け渡さざるを得なくなるのは避けられない。そして、実際に「砦」は明け渡された。このようなベアトリーチェん相対的地盤沈下という歴然たる事実がある一方で、「小冊子」を「少しも損なわない」こととはいったい何を意味し、それは如何にして可能なのであろうか。また、「高貴な婦人」に対する愛情はどれほどの間、続いたのであろうか。「小冊子」では、詩人の心が欲望に「卑しくも捕らわれ、数日の間(alquanti die)、理性の忠実さを損なうこととなった」と述べられている。この一節自体はきわめて曖昧なものと言わざるを得ない。なぜなら、どの時点から数えて「数日の間」なのかがはっきりしないからである。35章から39章の間で展開する「高貴な婦人」のエピソードの全体が「数日の間」に起こったとすると、彼女の誘惑はごくごく短い間しか続かなかったことになる。また、「高貴な婦人」に求めるものが、彼女の示す「憐憫」ではなく、「愛情」に変わり、心が彼女を愛することに「同意」してから、すなわち38章から数えるのだとすると、そこから39章までにいたる日数が「数日」ということになり、35章から38章までの展開に必要とされた時間は明らかにされていない、したがって分からないということになる。いずれの場合にせよ、これはConvivioで「高貴な婦人」=「哲学」に捧げられている愛情の持続とは大きく食い違うこととなるであろう。Convivioの第1カンツォーネ、"Voi che'ntendendo"は、アンジュー家のシャルル・マルテルの口を通じてParadiso(第8歌37行)で自己引用されている。ダンテがシャルルに詩を引用させた動機とは何であろう。シャルルはダンテのカンツォーネをどこで知ったのであろう。シャルル・マルテルは1294年3月に20日間ほどフィレンツェに滞在したことが知られており、この期間にシャルルの知遇を得たダンテがカンツォーネを披露したのだという推測が妥当であるとすれば、"Voi che'ntendendo"は1293年末か1294年初頭までには書かれていたと考えるのが穏当であろう。できる限り推測の要素を排除しようとするのなら、シャルルは疫病で1295年8月19日にはすでに歿しているので、それ以前にはカンツォーネが書かれていたと考えなければならない。他方、Convivioは未完で終わったが、その第4巻が書かれたのはいつ頃のことであろう。同巻14章では故人としてのゲラルド・ダ・カミーノへの言及が行われている。ゲラルドの死は1306年のことなので、14章以下はこの年以降に書かれたものと推定できる。それゆえ、「高貴な婦人」は「哲学」であるとするConvivioの説明が額面どおり受け入れられるならば、彼女への愛は少なく見積もっ
- 1993-10-20