Vita Nuova : 文化と詩の交叉点としての
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概要
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1957年に発表された池田廉氏による試論「聖女ベアトリーチェ賛歌」(イタリア学会誌6号)を始めとし、最近では清瀬卓氏によるVN第9章に関する論考-『ダンテ「新生」をめぐる一注解の試み』(1980年、イタリア学会誌28号)、岩倉具忠氏による散文の部分に関する分析-『「新生」の散文について』(1983年、日伊文化研究21号)に至るまで、日本に限ってみても、VNについて書かれたものの大半はこの作品を聖者伝の流れの中に位置づけていこうとする解釈に対して何らかの言及、批判、修正を含んでいるように思われる。さて、VNを「聖者伝」の流れの中において解釈しようと言う試みは、如何なる経緯から生じてきたのであろうか。この「聖者伝」仮説をDante研究史に於ける一歴史的産物と考えた場合、それは二重に条件付けられた状況への提言であった様に思われる。先ず一方に、作品の質、作者Danteの意図を巡ってその統一性(或いは均質性)に関する議論があった。そして他方には、VNが伝える内容に関して、寓意なのか事実なのかという議論があった。作品の統一性に関しては、既にDe Sanctisが抒情性と学問、詩とスコラ学との対立不和を論じており、その視点はCroceによって継承発展され、やがてstrutturaとpoesiaという形で再定式されていくこととなる。De Sanctis=Croceの立場は、抒情的直観に支えられた箇所=詩の発現している場所のみを重視するものであるが、この立場からするとVNは極めて不均質な断片的性格の作品として特色づけられることとなる。このような状況を背景に、断片性に対してVNの一貫性を弁護しようとする試みも生じてくるのであるが、そのような試みの早い例としてMarigoを考えることができよう。中世のスコラ学は理性と信仰、知識と感情の間の調停という問題を抱えており、その点をMarigo考慮し、理性の限界を神との直接的合一によって克服しようとする神秘的学説をVNの中に投影し、その中に神に向かっての魂の上昇運動を読みとり、そうすることによってVNの主題的一貫性、詩と学問の両立を明示しようとした。魂の上昇運動を読み込む点では後のSingleton, Branca もMarigoの足跡を辿っていると言えよう。そこでVNの中にBonaventuraのItineratium mentis ad Deum風の理論的内容が読み込まれているとすると, それと作品の表面を形成しているBeatriceに対する愛の表現との関係は如何に考えればよいのであろうか。Beatriceに対する愛の表現はただ単に学的内容を被い隠す為だけのヴェール=寓意にすぎないのであろうか。かくして作品の統一性の問題は、寓意か歴史的記述かという問いと密接に結び合わせられることとなる。一方の極端には、一字一句を歴史記述と受けとろうとする態度があり、他方の極端にはすべてを寓意に還元していこうとする態度がある。これら両者の中間で寓意性と歴史性を調停しようとする試みが生じてくるのである。問題解決の糸口は、Dante自身がConv.の中で行うallegoria"de li poeti"とallegoria"de li teologi"の区別(II, I, 4)に求められたと言えよう。寓意は、単純化して言えば、ひとつのまとまった意味を有する言説がsignifiantに転化され再利用され、何らかのsignifieと新たに結びつけられることと考えられるが、「詩人の寓意」に於いてはsignifiantたる言説は虚構であり、他方「神学者の寓意」に於いてはそれは歴史的事実である。例えば、「オルフェウスは妙なる音楽で獣や生命なき河や木石に至るまでを感動せしめた」という言説自体は虚構=つくり話であり、その意味するところは、「学ある者はその才芸によって無知なる者の心を自由に操る」ということになる。これに対して、「ユダヤの囚われの民がエジプトより脱出した」という言説は歴史的事実であり、その意味するところは「罪を脱却した魂が聖化された」ということになるのである。「神学者の寓意」は特に事実の中に秘められた意味を読みとるところからallegoria in factisと呼ばれたり、聖書解釈の一手段として魂が向かうべき超自然的・霊的現実の事柄と結びつけられるためにsenso anagogico(或いはmistico)などと呼ばれることもある。霊的現実と史的現実が結びつけられると旧約聖書の出来事は新約聖書の事件に関連づけて説明できるようになり、歴史上の王ダヴィデ(David)がキリスト(Christus)の到来を予め示した原型(タイプ、フィグーラ)であると言う具合に、2つの類似した出来事は「予表」と「完成」の関係に置かれることとなる。さて、VNにallegoria in factisを求めることの第一の帰結は、Beatriceの史的実現性或いは彼女に対する愛の現実性を承認することを意味する。しかし他方ではまた次のことに対する承認をも意味する。
- 1988-10-30