十六世紀におけるフィレンツェ公国の政治構造
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概要
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十五世紀末から十六世紀初頭にかけて、フィレンツェは他国に類例を見ないほどの目まぐるしい政治体制の変化を経験した。激動の開始を告げたのは1494年のフランス軍によるイタリア侵攻、フィナーレはメディチ教皇クレメンス七世と結んだ神聖ローマ皇帝カール五世のスペイン軍による1530年のフィレンツェ包囲戦。こうしてフィレンツェ共和国は最後の幕を閉じ、そのあとには教皇と皇帝の後押しによってメディチ家の支配するフィレンツェ公国が誕生することになった。 1494年から1530年にかけての一連の事件は、いわば西欧の絶対主義国家をまえにした中世のイタリア都市国家の政治的脆弱性を白日のもとにさらす象徴的事件の連続であった。中世の先進国フィレンツェは、ことここに至って、いやがうえにも自己の政治的後進性を自覚せざるをえず、絶対君主制へ向けての国家再建が急務となったのである。 本稿ではトスカーナという領邦国家内での、集権国家の形成過程とその政治構造についての大まかな整理を試みてみたい。その際問題となるのは転換期における伝統と革新、すなわち政治制度と支配階層の連続性と非連続性の問題である。なぜなら近世フィレンツェの「絶対主義」が他国のそれと異なる特質をもちうるとすれば、それはなによりフィレンツェが中世において共和政都市国家としての強固な伝統を築いてきたという事実の上に存するはずだからである。考察の対象期間は1532年から1551年までの約二十年間、つまり公国の形成期である。従って本稿ではシエナ問題は考察の射程圏内には入らない。
- イタリア学会の論文
- 1990-10-20
著者
関連論文
- John K.Brackett:Criminal justis and crime in late Renaissance Florence 1537-1609. Cambridge University Press, New York, 1992, pp.160.
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