他者の言葉 : ズヴェーヴォのナラトロジー
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概要
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イタロ・ズヴェーヴォの小説作品に目を向けるとき、ごく初期の短編『ベルポッジョ街の殺人』L'assassinio di Via Belpoggioなどをわずかな例外として、ほとんどの作品においてその主人公は、立場といい環境といい、否応なしに作者の肖像と映る。処女長編『ある生涯』Una vitaの主人公アルフォンソは文学的野心に燃える青年、それに続く『老い』Senilitaの主人公エミリオは小説を一編発表してのち二作目にかかる意欲を欠いた中年男といった具合に、生身の作者のある側面を-忠実な自画像としてではもちろんないにせよ-主人公は担わされているのである。自己の肖像ともいうべき人物を小説という虚構の世界に主人公として送りこむとき、作者ズヴェーヴォが解決しなければならない問題のなんであったか、以下それについて考察してみたい。小説家ズヴェーヴォの活動は、『ゼーノの意識』La coscienza di Zenoを境に、それ以前とそれ以後に大きく二分されるように思われる。この小説の主人公ゼーノは、それに先立つ二作品のアルフォンソおよびエミリオと兄弟かと思われるほど似かよった性格の持ち主であるのだが、その意識においては前のふたりをはるかに超えているといえる。たとえば夢への対応の仕方に、アルフォンソ/エミリオとゼーノではどのような差異があるか。それをめぐってデ・ラウレティスが興味深い論を展開している。彼女は夢を〈記述〉したゼーノと、それをしなかったアルフォンソ/エリミリオの違いに着目するのである。〈記述〉することによって、ゼーノは夢が内包する自己の欲望を客観視しえたのであり、その結果、これを把握して欲望より優位に立つことができた。一方、アルフォンソ/エミリオにおいては夢は言語化しえないものにとどまる。それを表現する手段を持たず対象化することができなかったがために、アルフォンソ/エミリオは夢(欲望)に打ち克てずに破滅に至るのである。夢に対する対応の仕方に現われたこの差異は、そのまま、それぞれの主人公が生み出された1892/98年と1919年における作者の意識の隔たりに重なり合うであろう。ところで、『ある生涯』/『老い』は3人称で、『ゼーノ』は1人称で叙述されているが、それなら、「仮に『老い』が1人称形式をとり、語り手がエミリオ自身であったなら、ズヴェーヴォとエミリオの関係はズヴェーヴォとゼーノの関係と同一でありえたろうか」というサッコーネの問題提起に、デ・ラウレティスが迷わず「否」の答を出しているのは、彼女がまさしくその間のズヴェーヴォの認識の変化に注目するがゆえである。『老い』から『ゼーノ』にいたるおよそ25年の歳月を、ズヴェーヴォは「見かけの沈黙」apparente silenzioのうちにすごした。そこで彼になにが起こったのか。精神分析との出会いもこの間のできごとであり、それがゼーノの〈夢の記述〉に反映したのであることは言うまでもない。精神分析はズヴェーヴォの創作活動にひとつの便利な道具を提供し、彼が心の深層を作品の表層に浮上させるのを可能にしたのであるが、これについては、次項IIおよびIIIでふれることにしたい。そのまえにわれわれが想起しなければならないのは、「見かけの沈黙」が始まるのに伴って、〈書く〉という行為がズヴェーヴォにとっての差し迫った急務たる色合いを濃くしていったことである。それは自己と自己をとりまく世界を客観化するために不可欠であり、自己発見・自己確認願望というきわめて内的な欲求に根ざすものであった。その欲求がいかに強いものであったかを証拠づけるのは、なによりもまず、「見かけの沈黙」時代の(ものとされる)彼の評論や寓話、日記や書簡の量の夥しさであるが、さらにそれを裏づけるように、ズヴェーヴォは、1902年-「見かけの沈黙」時代の幕が落とされて間もないころ-の日記に次のように記しているのである。今日をかぎりに私は、文学という名の危険で馬鹿げたシロモノを、私の生活から断固追放する。ただこの日記に向かうことをとおして、私自身をよりよく理解したいと念じてはいる。(略)ともあれペンが、自己の存在の深みにまで私が到達するのを助けてくれることだろう。『ある生涯』同様、『老い』も出版後ほとんどなんの反響も得られなかったことに対する落胆、加うるに実生活の奏でるさまざまな雑音の増大も相侯って、ズヴェーヴォは事実上文学的営みから遠ざかることを余儀なくされる。もっとも、さきの日記に述べられた、ともかく書くことによって得られるものへの期待感はその間を通じて生き続け、やがてそれは単なる心情吐露といった、自己の心のうちを整理する目的で自己完結的に書くという行為から、読者を想定した小説空間を構築するための〈文学的〉行為へと移行していくのである。そうした彼の自覚的営みによってくり広げられたのが『ゼーノ』以後の小説世界であるといえよう。
- 1987-10-30