錯誤を通じての前進 : 一九二一年の危機とグラムシ思想の展開
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概要
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工場評議会運動挫折後、ボルディーガ主義との闘争に踏み切るまでの約三年間は、グラムシにとっていわば「スランプ」の時期であったと言えよう。ファシズムが急速に伸張する中で、彼の立場は政治的にまったく孤立し、共産党創設についてもその後の闘争方針についても、ボルディーガのイニシャティヴにことごとく追随せざるを得ず、自己本来の革命思想を実践的に打ち出すことができないでいた。新党の中央委員に選ばれ、事実上の中央機関紙である『オルディネ・ヌオーヴォ』の編集を任されながら、工場評議会運動の中核をなしたトリーノ共産主義者グループをまとめることさえできず、トリアッティやテルラチーニがボルディーガ路線に引き寄せられていくのを、黙って見送らなければならなかったのも、この時期である。健康状態がきわめて悪かったことは、その時期周囲にいた人々の証言によっても、また一九二二年六月モスクワに着いてまもなく長期療養をよぎなくされた事実によっても、証明されている。ボルデイーガ路線の致命的欠陥を直観的に、また一部は明確に理論的に見抜いていながら、それに協力せざるを得なかった背景には、いうまでもなく一定の政治的配慮があった。一九二二年三月の第二回党大会(ローマ大会)でボルディーガのテーゼに賛成したことについて、一九二四年二月九日付のトリアッティ、テルラチーニ他宛の手紙で彼はこう回想する。「ローマで我々がアマデーオのテーゼを容認したのは、それが行動方針としてでなく、第四回大会への意見として提案されたからだ。それを容認することによって我々は、基本的な核の周囲に党の統一を維持しようと考えていたし、またアマデーオが党組織の中で担い続けていたきわめて重要な職務を考えれば、その程度の譲歩を彼に強いるくらいがせいぜいではないかと考えてもいた。間違いだったとは思わない。アマデーオとその派の中央活動に積極的に参画していなかったら、党の指導は政治的に不可能になっていたろう。……当時我々は退却の途上にあったし、その退却が整然と行われるようにしなければならなかった。我々の運動の中に新たな分裂の危機や危険を生じることは避けなければならなかったし、敗北それ自体が革命運動の内部にもたらすにきまっている不和の種以外に新しい不和を付け加えるようなことは、決してしてはならなかったのだ……」これはまる二年たってからの追想だし、ここに書かれているほど明確な「敗北」「退却」の見通しを、グラムシが持っていたとは思えないが、基本的な点では嘘はないだろうし、ローマ大会での彼の行動、つまりコミンテルン大会への提案としてのみ承認するという留保をつけてボルディーガ・テーゼを支持したことは、政治的にも正しかったと言えよう。ただ問題を、この時期のグラムシの、理論家・革命思想者としての主体がどうであったかという点に移せば、ボルディーガ主義と、コミンテルンの方針と、タスカやグラツィアデーイらいわゆる「右派」とのあいだで、自己の方針を確固として定めていたとはいえず、不安な動揺状態になかったとも、決して言えないのである。人民突撃隊問題についての彼の唐突な転換は、その動揺がきわめて具体的な姿をとって現れたものと見ることができる。そしてその動揺の背後には、彼のイタリア社会の分析や認識や展望が、この時期絶えず現実によって無惨に裏切られるという、自信喪失の経験があった。
- 1987-10-30
著者
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