日伊交流の一挿話
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概要
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上に掲げた書簡は、明治九年(一八七六)維新になって間もない明治政府の内務郷大久保通利が、ナポリ大学附属ヴェスヴィアス観測所(Osservatorio Vesvuiano)の初代所長ルイージ・パルミエーリに宛てた感謝状である。簡単な内容であるからこのままでも判ると思われるが、念のため釈文をつけると次の如くであろうか。 「さきに、わが政府が(お雇い)英国人マックヴィーン氏に命じて、貴下の発明になられた地震計および電気計などを購入するに際して、幸いにも貴下が(それら計器の)監査を御承諾下されたことによって精度の高い計器を将来することが出来、深く貴下の御厚意に感謝している。今ここに、わが国特産の綴錦のふくさ一枚をお送りして、多少なりともその御苦労にむくゆる気持を表したい。どうか幸いにも貴下がこころよくお受け下さるよう願っている。わが(感謝の)念は、述べつくせぬほどである。 明治九年十二月二八日 内務卿 大久保利通 大学校究理学博士 那不勤(ナポリ)観象台総長 ルイージ・パルミエーリ氏貴下 まず筆者の眼に、この書簡が触れることになった経緯を述べておこう。昨年(昭和六〇年)三〜四月に、海外出張でナポリ東洋大学に「平家物語」を講じに行った際、ナポリ大学理学部附属ヴェスヴィアス観測所研究員のアントニオ・ナザーロ教授(Prof. Antonio Nazzaro)より、この書簡の判読を依頼されたのがきっかけである。 ヴェスヴィアス観測所は、近代科学的手法による、世界最初の地震・火山活動観測所として一八四一年に建設が開始され、一八四七年には、ほぼその建物が完成している。ところが、その後の学問の進歩や、施設の充実により、十九世紀半ばの建物は手狭にあり、新しい観測所が戦後に建造された。しかし旧館も取り壊すのではなく、附置地震学博物館として活用されることとなり、その展示物のうちに大久保書簡も含まれるので、イタリア語訳が必要になったという次第である。 ただし筆者がみたのは書簡の実物ではなく、そのフォト・コピィである。というのは、書簡の宛名人ルイージ・パルミエーリ(Luigi Palmieri一八七〇〜一八九六)は、ナポリからカゼルタ経由で北東に七〇キロほど行った、ベネヴェント州の小村ファイッキョの地主の家柄の出で、大久保書簡をも含めて、パルミエーリの遺品は全て、ファイッイョのパルミエーリ家に、パルミエーリの孫娘の管理のもとに保存されており、今回の滞伊中、筆者には残念ながら同地を訪れる機会を得ることがどうしてもできなかったからである。 しかしそのフォト・コピィで見た限り(したがって紙質・墨色は不明)では、書簡は縦十四・六センチ(五寸)、横二十一・七センチ(七寸)の横長の用紙に、十二ミリ間隔で十六本の縦罫を引き、中央の第九行目には横罫を、まず上から三センチほどの所に四ミリ間隔で二本、更にしたから五・五センチのところに一本引いて、その下に「内務者」と印刷した公用用箋とみられる紙に、謹直な手で、片仮名交りの楷書で書かれている。大久保利通の名前の下には、最期の「通」の字にかかって「内務卿大久保利通」という印が据っている。全体が、大久保の署名の部分も含めて、同一の筆蹟で書かれており、当時の内務省の文書作成係の筆になる公式の感謝状と思われる。いずれにしても、近代日本史の専門であられる東京大学文学部の高村教授をわずらわしたり、筆者自身が刊行されている大久保の自筆書状の影印複刻と対照してみた限りでは、直筆ではないと言ってよかろう。 附け加えると、ナザーロ教授の言によれば、ファイッキョのパルミエーリ邸には、この書簡の原本は存在するが、ふくさの方は見当らないとのことであった。ただし遺品の整理に当った人が、ふくさとは如何なるものか知らなかった可能性があるから、はたして本当に紛失してしまったかどうかも、俄かに断定できぬところである。さらに関連して、この感謝状がパルミエーリの許に送られた時、むろんパルミエーリは日本語が読めなかったであろうから、英語あるいはイタリア語の訳が添えられていたのではないかと想像されるが、その訳文の存在も詳らかにはしなかった。
- 1986-03-15
著者
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