ダンテとチョーサー : ウゴリーノ伯エピソードをめぐって
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概要
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イギリスの中世詩人、「英詩の父」ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer, c.1340-1400)による、『薔薇物語』(Le Roman de la Rose)や『哲学の慰め』(Consolatione philosophiae)の飜訳、あるいはボッカッチョの『イル・フィロストラト』(Il Filostrato)の飜案『トロイルスとクリセイデ』(Troilus and Criseyde)などの作品の場合とは違って、ダンテの文学とチョーサーとの関係は一般にきわめて複雑で、その取扱いはかなりの慎重さを必要とする。その中にあっては例外的とも言えるウゴリーノ伯エピソードに入る前に、まずその点を見ておくことにしょう。 ダンテの作品にダンテ自身の名が明確に言及されているのは、本文に関する限り-つまり、書簡類や作品の表題等を除けば-全作品中ただの一箇所(『神曲・煉獄篇』XXX 55)である。このことは、あるいはすでによく知られてもいよう。ところが、意外にも、チョーサーの場合もこの点まったく同様で、『誉の館』(The House of Fame)(II 729)にただその一列を認めるだけである。チョーサーのこの作品は、一三七〇年代後半、つまり、チョーサーの創作活動をフランス期、イタリア期、イギリス期の三つに分ける区分法に従えば、フランス期からイタリア期に移行する過渡期のもので、これはダンテの影響が明らかに窺われる最初の作品なのである。 右の一致は単に偶然のものであろうか。いや、われわれの判断は、この事実を、チョーサーにおける、ひいては英詩における、ダンテの影響の深度とその決定性の証左と見る方向に傾かざるをえない。 ダンテの該当箇所は、ウエルギリウスの案内によって煉獄の最上部、地上の楽園(Paradiso terrestre)に今や達したダンテがふとウェルギリウスの姿が消えていることに気付いて涙を流したのに対し、これから天国に至るまでの案内者となるはずのベアトリーチェが言う言葉の中にある。 "Dante, perche Virgilio se ne vada, non pianger anco, non piangere ancora; che pianger ti conven per altra spada." (Purg.XXX 55-58)(「ダンテよ、ウェルギリウスが去ったとて、まだ泣いてはなりません。未だ泣いてはならないのです。まだ他の剣ゆえにあなたは泣かねばならないのですから」) 一方、チョーサーでは、ある夜、夢の中にジュピターの使者として現れた鷲(Egle)が、その爪に掴まれて空高く誉の館、つまり、名声の女神(Fame)の居る宮殿へと上って行くチョーサーに対して、諸々の景色や事象を説明しながら、重力作用に言及した際に発する言葉である。 "Geffrey, thou wost ryght wel this, That every kyndely thyng that is Hath a kyndely stede ther he May best in hyt conserved be."(II 729-32) (ジェフリー、お前もよく知っているように、自然に存在するいずれの物にも、それが最もよく保存される自然本来の場所があるのだ」) この鷲が、地獄を経て天国へダンテを導くウェルギリウスとベアトリーチェに対応するものであることは、明らかである。だがそれ以上の類似点をここに見出すことは実際難しい。いや、ダンテの反響は、こではなく、飛び立った鷲の爪の中で恐怖のあまり茫然となっているダンテに向かって鷲の言う、次の言葉にこそ見出されなければならない。 he to me spak In mannes vois, and seyde, "Awak! And be not agast so, for shame!" And called me tho by my name, And, for I shulde the bet abreyde, Me mette, "Awak, "to me he seyde, Ryght in the same vois and stevene That useth oon I koude nevene.(II 555-62) (彼[鷲]は人間の声で私に語りかけ、こう言った。「起きなさい!そんなにぼおっとしているものではありません!」それから私の名を呼び、私がよく知る人の声と調子そっくりに、もっとよく目が覚めるよう「起きなさい」と私に言うのを、私は夢現に聞いた。) 「私がよく知る人」とは、チョーサー婦人の謂に他ならない。鷲の声が婦人のそれと同じであった-いや、「それはいつもとは違う優しい声だった」hyt was goodly seyd to me, /So nas hyt never wont to be.(565-66)-という箇所の醸す滑稽感は勿論チョーサー自身のものである。ベアトリーチェをこの鷲と対比させること、まして彼女の声に夫人の声を重ねることは、冒涜的ですらあると考えられるかもしれない。しかし、呼び掛け、命令文の反復、「私の名」(Cf. nome mio: Purg. XXX 62)とう言葉などは、右の二つの引用文の交点にダンテの存在を窺せるに十分である。そして、こうした比較は、ダンテとチョーサーの、単に字句上の類似に止まりえない関係のありかた、あるいは両者の気質の違い、文学の違いを、すでに暗示していよう。 ところで、チョーサーの晩年いイギリス期の最大傑作『カンタベリー物語』(The Canterbury Tales)中の一話「修道僧の話」(The Monk's Tale)に見られるウゴリーノ伯エピソードが、ダンテの『神曲・地獄篇
- 1986-03-15