ダヌンツィオの『火』をめぐって
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概要
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エレオノーラ・ドゥーゼ(一八五九一-一九二四)が、訣別寸前の愛人で、オペラ『メフィストレス』や『ファルスタフ』の作曲家であり、ヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の翻訳などで知られる作家でもあるアッリーゴ・ボイトに、ガブリエレ・ダヌンツィオ(一八六三-一九二八)の新作『死の勝利』を送ってほしい旨の手紙を書いたのは、一八九四年五月のロンドンでのてとであった。心変りしてゆく女に未練たらたらのボイトは直ちにこの気まぐれな要望に応えるのだ。翌六月、ドゥーゼはボイトに大略次のような感想を書き送る。-ダヌンツィオは地獄の使者ですね。私、この書物を読みました。私たち女がどうにか見つけたと思っていたある種の言葉を、彼は先刻承知なのです。こうした精神の持主を愛するくらいなら、どこかでのたれ死にでもした方がましですわ。人生で大切なもの、勇気の確かな証しとか、生を耐えるための偉大な力とか、痛苦に充らた犠牲とか、そういう一切を、この作品は踏み躪補っているのです。私はダヌンツィオを憎みます。でもそのくせこの男には痺れますわ…要するに運命は決ったのである。思えばボイトもとんだ役割を演じたものだ。早くもその年の秋、ボイトへの憐憫を引きずりながらも、ドゥーゼの人生にこの名立たる女蕩しの影が揺曳し始める。旅芸人として辛苦の前半生を過ごし、いまや宿敵サラ・ベルナールと妍を競い、身近に「チェーホフ、ロマン・ローラン、ルナン、ハウプトマン、リルケといったそうそうたを顔触れ」を居流れさせていたこの大女優の直観は、ボイトヘの手紙に明らかなように、ダヌンツィオに天性の芸術家と誘惑者を見てとったのであるが。その後一九〇四年まで続く二人の関係のなかで、彼らが与え合い、奪い合ったものについての詳細はここでは措くとして、ただ、ドゥーゼの存在がダヌンツィオに潜在していた演劇への関心を彼に明瞭に自覚させ、他方ダヌンツィオの側からは、レーゼドラマとしてはともかく舞台には不向きな作品をドゥーゼに与えたことによって、彼女に恰好の鍛練の場を提供したことを指摘しておきたい。彼の劇作はしばしば過多な抒情に淫し、そのため劇的構成力を欠く憾みがあることは、多くの論者の指摘するとおりであろう。ところでドゥーゼが『死の勝利』の呪縛のもとにいた頃、ダヌンツィオの身辺にはどのような人間模様が織られていたのだろうか。周知のように彼は一八九〇年兵役に服し、その折得たマラリアの予後をフランカ・ヴィラで過ごすことになる。そこには太陽があり、海と白砂があり、そのうえ盟友フランチェスコ・パオロミケッティ画旧の暖い眼差があった。『汚れなき人』はての時書かれたのである。フランカゲィラこそは彼にとっていわば母なる土地であり、そこではいつも心おきなく自然との交感に身を委ねることができるのだった。『快楽』の魅力的な頁-決闘で傷ついた主人公が、海との交感の裡に回復期を過ごす条りを想起させる日々であり、ダヌンツィオの人生には珍しく女気のない一時期であった。しかしこの男にあっては、静謐の季節は擾乱の前触れにほかならない。そして舞台はナポリに移る。ある友人のもとに赴いたのであるが、運命はヴェヴゲィオの街にふさわしい出会いを用意していた。出会いの対象は、驕慢な魂に抜群のプロポーションをまとったマリア・グラヴィーナことアンゲィソラ・ディ・サン・ダミアーノ伯爵」夫人爾来数年に亙って彼に大いなる悦楽と苦悶をもたらすことになる"火の国の女"である。(因みに詩的エッセイ『夜想曲』にしばしば姿を見せるレナータは、この女性との間にできた娘である。)それにしてもダヌンツィオの生涯を彩った数多くの女性たらのなかで、ドゥーゼは別格として、マリア・グラゲィーナはまことにユニークな存在ではなかろうか。他の女性たちが、気まぐれでしかも情事を創作の恰好の源泉と心得ていた冷酷な芸術家の支配のもとで、人生を蹂躙され、彼の情欲の犠牲としての相貌を呈しているのに対して、マリア・グラヴィーナは少くとも一八九一年から九八年までの歳月を、あっぱれダヌンツィオの支配者として生きたのである。ダヌンツィオの絵巻物のように華かな生涯にあっても、この年月はとりわけめくるめくような時間の連続であった。マリア・グラフヴィーナのもとで、彼は天国と地獄を見た筈である。馴れそめの頃の、決闘や訴訟沙汰をかいくぐってのナポリでの甘美な愛の調和の日々。だが、その後徐々に本性を露わしてきた女の凄まじい嫉妬の発作、時にはピストルを振りかざしての威嚇を目のあたりにして、幾度フランカヴィラに難を避けたことだろう。そうしてまた間歇的に訪れる愛と官能の協奏の時間。充足と微笑がひととき二人を包むのだ…さすがにダヌンツィオも疲れてきた。それでも蜘蛛の糸に搦み取られた羽虫さながら、この女の軛きは簡単には断ち切れないだろう。レナータに
- 1984-03-15
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