ダンテの言語思想とそのfontiについて
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概要
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ダンテ(以下D.とする)が諸作品において折にふれ言及し、「俗語詩論」(以下D.V.E.とする)で集約的に表明した言語思想のいくつかの側面が、従来あやまって革新的・先進的な見解としていわば不当な賞賛を博して来たことは否定しがたい。たとえばB.Nardi (Illinguaggio, in D.e filosofia medievale, Bari 1942)はD.V.E.の新らしさは、言語の変化の概念が当時のスコラ哲学の通説とはことなり、もはや抽象的ではなく、具体的かつ歴史的に把握され、そこには明かに一民族の言語の歴史的生成という意識がみられる点にあるとしている。またNardiの説をさらに発展させたA.Pagliaro(I "primissima signa "nella dottrina linguistica di D., in "Nuovi saggi di critica semantica", Messina-Firenze 1956)はD.の言語思想の現代性は次の諸点に要約されるとする(p.238)言語をformaとして捉え、言語記号を「自由」なものと考えた点。諸言語の生成と言語事象の歴史性の認識。社会的要因の強調。多様に分化した方言間に存在する言語的共通性。意識的選択の成果としての共通語の概念。なかでも「人間はたがいの意志を伝えあうためには理性的かつ感覚的ななんらかのしるし(signum)を有する必要があった」(I, 3-2)、またそのしるしは「音声的であるかぎりは感覚的なものであり、なにかを表示するかぎりは理性的なものであって、しかも任意に(ad placitum)表示することは明らかである」(I, 3-3)というD.の主張には言語記号の恣意性と多様に組織された言語記号の総体としての言語の有する自由についての鋭い洞察が含まれているとして、Pagliaroはこれを高く評価している。なぜならこの記号は音が感覚の対象である点において感覚的実在であると同時に、音と表意されるものとの結合が自然の必然性によってではなく、人間がそれに恣意的に意味をあたえるという点で、自由な、精神的な実在だからだというわけである。しかしこのような評価は、近年D.の言語理論の背景にあった中世の言語思想、ひいては中世の文化的・知的状況があらたなfonti小の発見を通して、ますます明らかにされるにつれてD.の理論をより具体的かつ歴史的に位置づける作業が進められた結果、大幅に修正されつつあるといえよう。これまでいわば「まとはずれ」の賞賛にあずかって来た理論は、実は当時の言語研究の専門分野を背景として成立したことが判明し、D.のテキストと新しく発見されたauctoritatesとのあいだに具体的な借用関係がつきとめられた結果、けっしてD.の独創的見解とはいいがたいものとなったのである。従来D.V.E.を「俗語の適切かつ有効な表現方法」についての論考であるとみなし、PoeticaもしくはRetoricaに類する著作と考える研究者がすくなくなかった。そめ場合第一巻の-章から九章までの「一般言語学」をあつかった導入部と第二巻の詩の文体を対象とした「修辞学」的論考とのあいだにどのような有機的関係があるのか、また著者の意図がどの辺にあるのかが明確に漑握されないままに前者と後者を個別的にあつかう傾向がみられた。たとえば前掲のNardi, Pagliaroのごとく論考の「一般言語学」的な部分に主たる関心をむける場合には、「修辞学」の部分にはあまり深くかかわらず、一万「修辞学」に力点をおく研究者は、前半の導入部分はかるくふれて通りすぎるといった傾向がみられたのである。そのように論考の前半と後半のあいだに有機的統一が欠けるかのような印象をあたえるのは、全体で四巻にまとめられる予定であったこの著作か未完だからということでかたづけられて来た観かある。ところか今までD.の独創的見解とみなされて来た「一般言語学」的な理論の成立の背景には知られざるfontiのあったことか究明され、解釈か修正されるにつれて今まで論理的矛盾であるかのように思われていた点か実はvolgare illustreの探求という目的に到達するために意識的に作者のおいた布石であったことが判明する一万、D.の真の独創性は他の点に求められなけれはならないことか判明した。
- 1982-03-20