『作者を探す六人の登場人物』における劇行為の二重性について
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概要
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芝居の稽古をしている最中の昼間の舞台に、「登場人物」と称する者たちが突然現われ、この稽古を中断する。彼らは、作者に<拒絶>され、<放棄>された悲劇の登場人物であり、自分たちの物語を劇化してくれる新たな作者を探しているという--ルイジ・ピランデルロの『作者を探す六人の登場人物』 Sei personaggi in cerca d'autore(一九二一年初演)は、このように一見奇妙な筋立ての上に成り立っている。物語の作品化を迫る「登場人物」たちに対し、稽古をしていた「俳優」や「演出家」は、始めのうち全然取り合わないが、次第に興味を誘われ、ひとまず劇の舞台化に同意する。ところが、過去の事件が再現され、上演のための準備が進められてゆくにつれて、既成のリアリズム的演劇理念を拠り所とする「俳優」や「演出家」と、自己の悲劇的情念の絶対性・永遠性を訴える「登場人物」との間に、劇的表現の方法をめぐって対立が表面化する。それはまず、小道具や身振り、台詞まど些細な事柄において生じるが、やがて、<役>と<役者>、すなわち<演じる者>と<演じられる者>の乖離という点で決定的なものとなり、終には演じることの意味自体が否認されてしまう。父親 先生、私は、俳優さんたちの御立派なのには全く敬服いたしております。あちらの方にしても、このお嬢さんにしても。しかしですね、何と言っても私たちそのものではありません…… 演出家 そりゃあ、≪あなた方そのもの≫になど、なれるはずがないでしょう、何せ役者なんですから? また、娼婦となり、危うく義父に身体を売ろうとしていた、その宿命的な邂逅の場面をそっくりそのまま再現することを要求する「継娘」に向かって、「演出家」はどこまでも常識的な劇場の論理を押し付けざるを得ない。 演出家 これは恐れ入った!そんなことをすりゃあ、見てる方が腰を抜かしちまいますよ? 継娘 でも、それが真実なんです! 演出家 何が真実です、いい加減にして下さい! ここは劇場だ! 真実と言っても限度がある! このような演劇論的葛藤を孕みながら、六人の物語が徐々に舞台上に再現されてゆくわけであるが、あくまでリアリズム的方法論の牙城に立て籠もる「演出家」たちの目論みとは裏腹に、「登場人物」の悲劇的情念は<永遠の受苦>として、現実的な時間・空間の秩序をはるかに越えた地点で炸裂する。それは、「父親」の喘ぐような饒舌、「継娘」のけたたましい笑い、「母親」の絶叫、「息子」の侮蔑を込めた憤りとなって舞台空間を占領し、「俳優」たちの立つリアリズム的世界を圧倒する。そして、「幼女」の溺死、「少年」の拳銃自殺という一家の物語の破局が演じられるに及んで、その舞台上の虚構が現実の死とすり替えられ、これによって「俳優」たちの演劇理念は完全に覆される。この<リアリズムの逆転>をもって劇の幕が閉じられるのである。しかしながら、『作者を探す六人の登場人物』の提起している問題が、こうした演劇の方法論上の対立にのみ帰一し得るというわけではない。<舞台と現実>、<役と役者>、<虚構と真理>といった対立の構図は、実は、ピランデルロが人間存在の根底に見ていた生の葛藤を寓意するものに他ならない。言い換えれば、ピランデルロはこの作品において、自我の不確定性、現実の多義性という彼の形而上学的認識を、演劇の力学的機構を借りて表現しているのであり、<リアリズムの逆転>とは、従って、同時にそのような演劇理念の立脚する世界観そのものの転覆をも意味していた。「父親」は言う。 ただ、果して、先生が今の姿をありのままに御覧になってるものかどうか……たとえば、何年も前の昔の自分を考えてみて下さい。その時抱いていたあらゆる幻想、自分や自分の回りの物がどんなふうに見えていたか--それはその時のあなたにとって確かに現実だった! --ところがです、今思えばもはや幻想でしかない。昔はあなたにとって≪現実≫だった何もかもが、今ではそうは≪見えない≫、そう考えると、この舞台の床どころか、足下の地面そのものさえ崩れ落ちてゆく、そんな気がしませんか? だってこの理屈からすると、今あなたが自分と思っている≪この人間≫が、今日そうして見えている現実の全てが、明日になったら、やはり幻想でしかなくなるってことですから。この戯曲の生命は、一口に言えば、合理主義的世界観の破綻から生じた現代の実存的な不安の意識を、舞台力学の中に搦め取って演劇への問いと化し、劇形式の変革へと繋げていった、その卓抜な寓意性にある。この点から、作者自ら「劇中劇」teatro nel teatro と呼んだこの劇の特異な構造は、一個の主題を展開しながら、同時に意味作用の過程としての演劇の<約束事>を露呈してゆくという、「メタ演劇的」metateatrale な性格を持つものと言える。すなわち、ピランデルロはここで、<虚肢
- 1981-03-31