マルシリオ・フィチーノにおける哲学と宗教の関連づけとその史的発展
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概要
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フィレンツェ・ルネサンスの代表的人物、マルシリオ・フィチーノMarsilio Ficinoは、キリスト教とプラトン哲学の融和を図ったと評されている。「彼によって『古典的根源に帰れ』との標語の下にプラトンとパウロとが結ばれ、古代哲学とキリスト教信仰との間の障壁が除かれた」。確かに、このプラトン学者の現存する最後の仕事は、『聖パウロのローマ人への手紙註解』Commentarius in Epistolas Divi Pauliと考えられている。しかしながら、人の生涯は誰であれ、二・三行で言い尽せる程単純ではない。この点フィチーノも亦例外ではない。今日の彼に関する一般認識が、当時において必ずしも通有的でなかったことは、この小論で明らかになるであろう。他方、フィチーノについて全く異なる捉え方が、今もなお存在している点も注目される。それは要するに彼を「異教徒」と見なそうとするものである。前述の彼の最後の仕事と注目されているものは、未完成のまま残されたが、これを受け継いだのは、ジョン・コレットJohn Coletであった。コレットがフィチーノから影響を受けた可能性は、両者の思想の類似性によって以前から認められていたが、彼らの具体的な関係は明らかでなかった。しかし前者が後者の熱烈な賛美者であったことが、近年発見された往復書簡から判明した。L.Milesはこの新発見に基づく研究に依りながら、二人を詳細に比較し、コレットに較べてフィチーノが顕著な異教的傾向をとり、キリスト教の教義から逸脱していることを力説した。が、マイルズはその際、「異教徒」フィチーノを強調する為に勇み足を行なう。-人の書斎には普通それぞれ好みの聖人に灯が点されるのに、フィチーノの書斎にはプラトンの胸像がの前に常夜灯がつけられていた, と云うのである。ここには、プラトンへの深い敬慕の念のみならず、彼の容易ならざる異教思想との関係が現われているとして、マイルズ以前にも幾度となく引用されてきた。しかしながら、この話が、パチーフィコ・ブルラマッキィPacifico Burlamacchiによる『サヴォナローラ伝』Vita Hieronymi Savonarolaeから由来しているのは注意を要そう。修道士ブルラマッキィは親サヴォナローラ派であり、この有名な逸話は、サヴォナローラに対する反行動の文脈の一節を成しているからである。それ故、この物語ともう一つのしばしば引用される、フィチーノとそのサークルがプラトンの誕生日を祝う饗宴を復活させた事件との間には大きな違いが横たわっている。饗宴を千二百年振りに復活させたことは、フィチーノも述べている通り歴史的事実であるが、燈明の件はそう断言するには未だ不充分である。従ってマイルズがこの両件を同じ文脈の中で捉えて、フィチーノの異教性のメルクマールとするのは行き過ぎだろう。次に、フィチーノの死から七年目の一五〇六年、彼の伝記を書いたジョヴァンニ・コルシGiovanni Corsiが、その中で用いた云い廻しに注意を払っておかねばなるまい。-フィチーノが「異教徒からキリスト教の兵士になった」ex pagano Christi miles factusと言う一節は、彼が若い頃ルクレティウスLucretiusの『物の本質について』De Rerum Naturaの愛読者であったことを知る後世の者には想像を逞しゅうする力を秘めている。が、当時の人文主義者の用語では、異教徒と訳されるpaganusが「平信徒」を意味していたのであり、コルシの一節は「平信徒から司祭になった」と解釈される。さらにフィチーノが指導的役割を果したプラトン・アカデミーの実態にも注意を払っておこう。このフィレンツェ・アカデミーを、古代のアカデミーそのものの再現と見なすのは素朴すぎるし、又十八世紀のフリードリヒ大王下の組織だったアカデミーを連想することは正しくない。Paul Oskar Kristellerは、プラトン・アカデミーの組織及びフィチーノの著作の形式と内容とが、トスカーナで栄えた平信徒の宗教団体の組織と文学と共通の特徴を有していることを明らかにした。その際、イタリアの宗教上の伝統がフィチーノのプラトン主義に及ぼした影響は、ドイツとオランダの神秘主義の伝統がクザーヌスCusanusやエラスムスErasmusに与えた影響に似通っていると示唆した。ところでクザーヌスとエラスムスの間の世代に属し、この二人と同じく、「近代的敬虔」Devotio Modernaとして知られる「共同生活兄弟団」の教育を受けたヴェッセル・ガンスフォルトWessel Gansfortのプラトン・アカデミー訪問にまつわる問題は一考する余地がある。彼はこのアカデミーの名声を慕って、一四七〇年代にフィレンツェの土を踏んだが、故郷のツヴォルレの単純な人々の方が、当地の人文主義者達よりも、自分を惹きつけると云って立ち去った。要するに彼はフィレンツェに失望を味わった訳である。
- 1979-03-03