夏目漱石『それから』とダヌンツィオ『死の勝利』
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概要
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夏目漱石の推薦で森田草平の小説『煤煙』が東京朝日新聞に連載されたのは、明治四十二年一月一日より、五月十六日までであった。この作品は周知のように、草平が自身と平塚明子との恋愛を素材として書いたもので、それを敢えて書かせるべく決意させたのは師の夏目漱石であったことは、草平自身が回想のなかで語っている。すなわち、明治四十一年三月二十一日、塩原尾花峠に明子とともに心中行を企てた事件が、当時の新聞に喧伝され、草平は社会的に葬られんとしたのを、師の漱石が、作家として再生の血路を開かせるべく、「朝日」に発表の舞台を与えてやった、ということになる。草平は故郷の老母に財産を処分してもらい、その資金をもとに起死回生を図った。草平自身当時を回想して次のように記している。いよいよ背水の陣を敷いて、製作に取り懸った。が、懸ったといっても、ただ机の前に坐ってぼんやり考へてゐるだけで、一行も書いてはゐなかった。その考へてゐることすら決して纒まってはゐなかった。第一私は、事件の渦中から自分を切離して、第三者として観察することが容易に出来なかったのだから、これはどうも仕方がない。仕方がないので、私は今迄読んだ西洋の作をいろいろ繰返して読んで見た。その中にはダンヌンチョの『死の勝利』もあり、ドストエフスキーの『罪と罰』もあった。その頃、先生が読んで面白いといってゐられたズーデルマンの『猫橋』も借りて来て読んだ。というようなわけで、『煤煙』の構想には右に語っているような西洋文学の影響が当然考えられるわけである。とくにダヌンツィオ『死の勝利』については、『煤煙』の十二章に小島要吉が真鍋朋子に『死の勝利』を貸し与えるところがあり、それが二人を近づける契機となっている。要吉は友人神戸と金葉会という女子学生あいての文学講座を開いている、そこで朋子と知りあうことになる。十四章にその会が二年めを迎えた正月に、病いの癒えた要吉が金葉会に行って、朋子に会う場面がある。要吉は開会の時間より少し早めに会場である教会に着いてしまったので、何心なく会堂のピアノの鍵盤を押していると 後に朋子が来ている。
- 1972-01-20