ペトラルカの最初の学習(一三〇四-一三二〇) : ペトラルカにおけるヒューマニズムの形成(I)
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概要
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一、おいたち「私は放浪のうちにはらまれ、放浪のうちに生まれました。そのさい母は、ひじような苦痛と危険にさらされ、産婆たちも医師たちも、母はとうてい助かるまいと思ったほどです。こうして私は、まだ生まれおちぬさきから危険を冒しはじめたのであり、死の予兆とともに人生のしきいをまたいだのです。」(Fam., I, 1)。フランチェスコ・ペトラルカは、自分の出生について、こう語っている。この叙述には、むろん、この《放浪の文人》の自意識と人生観が投影されている。だが、かれの出生には、事実また、はげしい党争に血ぬられた自治都市フィレンツェの政情が暗いかげを投げかけていた。ペトラルカの父も祖父も、曽祖父もフィレンツェにほど近いインチーザ Incisaの村で公証人をしていた。この家族は、やがて花やかなヒューマニズム運動やルネッサンス文化のおもな担い手となる新しい世俗的知識階級に属していたわけである。この家族は公式の姓ももたなかった。祖父の名はパレンツォ Parenzo父のほうはパレンツォのピエトロ Pietro di Parenzoとよばれていたが、世間的にはむしろペトラッコ Petraccoあるいはペトラッコロ Petraccoloの名で通っていた。しかし、すでに一三一二年の一文書では、かれはペトラルカ Patrarcaの姓で名指されている。それは、のちに息子フランチェスコによって著名にされたペトラルカ Petrarcaなる姓と、本質的にちがわない。したがって、ペトラルカなる姓はフランチェスコがそのヒューマニスト風の好みにもとずいて作りあげたものだという、久しく流布していた説は、まったく根拠のないものである。さて、有能で野心家のペトラッコは、インチーザからフィレンツェの町に移り住み、そこでかなりの成功をおさめる。かれは、一時《行政委員会》Collegio dei Prioriの書記をも勤めているが、それは公証人にとっては名誉ある職のひとつであった。この事実にも、かれが有能な人物としてフィレンツェ人士のあいだに認められていたことがわかる。かれはなかなかの教養人であって、ラテン作家をも愛読し、とりわけキケロに傾倒していた。ダンテとも個人的交わりがあった。そして、息子フランチェスコの証言によれば、教養・天分ともにダンテと相通ずるところがあったのである(Fam., XXI, 15)。一四世紀初頭のフィレンツェでは、ちようど激しい内部抗争の嵐が吹きすさんでいた。一三二〇年一月、ダンテは、公金横領の冤罪をかぶせられてフィレンツェを追放される。その年の十月二十日には、ペトラッコもまた同じ運命にみまわれる。フランチェスコの証言によれば、ダンテとともに「同じ日、同じ内部抗争の嵐によって祖国を追放された」のである(ibid.)。しかしこれは、フランチェスコの聞き誤りか、自分の父を偉大な同市民ダンテといっそう近しい関係に置きたいという要求からきた意識的無意識的の粉飾であろう。じつは、黒党Neriの領袖のひとりとの私的不和が直接の原因だったのである。ともあれ、これまた無実の罪に問われて、重い罰金のほか、資産没収、片手切断、国外追放の刑を無裁判で宣告されたのである。ペトラッコは、あやうく難をのがれてフィレンツェを脱出し、妻エレッタ Elettaをともなって、インチーザの南なる皇帝派の小自治都市アレッツォに身をひそめた。それからほぼ一年半ののち、われらのペトラルカは、この亡命の地で呱々の声をあげたのである。一三〇四年七月二〇日、月曜日の暁であった(Posteritati)。すでに見たとおり、かれは、自己の生涯をこの出生のうえに投影して、そこに運命的なものを感じてとっている。
- イタリア学会の論文
- 1968-01-20
著者
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